加藤有佳織 慶應義塾大学(院)
第二次世界大戦下,アメリカ合衆国およびカナダでは,軍事的理由から西海岸地域に暮らす日系人の強制収容が実施された。戦争が終わると収容者は解放されるが,政府による謝罪や補償は1988年の日系アメリカ人補償法制定やリドレス運動合意まで待たなければならなかった。この強制収容という出来事は日系作家の多くにとって重要な題材であり,彼らの作品を論じる際には避けがたい論点の一つとなるが,強制収容をめぐる複数の文化的文脈を考慮することもまた必要である。本発表は,とくに収容者と先住民の交流に関心を寄せる作品を,歴史的背景やモンゴロイド種の言説を参照しながら分析し,日系人を先住民に喩える文学的・文化的傾向の一部を提示することを試みる。
実際に日系人収容者と収容所に近接した保留地に暮らす先住民のあいだには交流があったことを踏まえ,Cynthia Kadohataや Hiromi Gotoは強制収容を先住民の視点からも見直そうとする。たとえば,アリゾナ州のポストン収容所は保留地への転用を将来的な目的として建設され,インディアン局の管轄下にあった。ここを舞台とするKadohataのWeedflower (2006)は,収容者の少女Sumikoと有刺鉄線の外側に住むモハービ族の少年Frankとの交流を描く。一方カナダでは,Genshichi Takahashiの回想によれば,BC州内陸の平原に建設された収容所の収容者は,収容所を訪れる先住民とともに野菜の栽培販売を行なうこともあった。1980年代にアルバータ平原の農園に移住した日系人家族の物語The Kappa Child (2001)においてGotoは,語り手の少女が,農園を囲む有刺鉄線の向こうに日系ブラッドインディアンの少年Geraldがいることに「ほっとする」と描くのだが,それはTakahashiの回想を彷彿とさせる。これらの作品は,収容所付近の先住民の存在をあらためて示すとともに,先住民にとって日系人強制収容はいかなる意味を持つかを示唆する。
まったく同時に,日系作家が強制収容の文脈で先住民を描くとき,戦後合衆国およびカナダにおける補償運動での強制収容と先住民強制移住の関わりも照射される。補償運動は日系人強制収容をひろく人権問題と定義することで推進力を得た。たとえばカナダのDavid Suzukiは先住民強制移住に連なる問題であると主張し,運動に加わったJoy KogawaはObasan (1981)で一世のIsamuを先住民に喩えるなど,日系人と先住民の類似を強調する。それは,補償運動推進のために有効なレトリックとして,北米の先住民というアイコンの戦略的再利用である一方で,Philip J. Deloriaが精査した「インディアンのふりをする」伝統の一端に位置するものでもあるだろう。日系人が,かつてアジア系アメリカ人と称された先住民を演じることはいかなる意味を持つのだろうか。本発表は,KogawaやKadohata,Gotoといった日系作家たちが,多義性を抱えながら日系人を先住民に擬えるゆえんを探ることを目指すものである。