1. 全国大会
  2. 第49回 全国大会
  3. <第1日> 10月9日(土)
  4. 第3室(11号館 6階 1162教室)
  5. 1.心理学的観点よりのCaddy Compsonの一考察

1.心理学的観点よりのCaddy Compsonの一考察

小野 雅子 國學院大学(非常勤)

 

この考察の出発点は,様々な「何故?」である。後になって書かれたAppendixに登場するCaddy(らしき女性)とThe Sound and the Fury に描かれるCaddyが異なった印象なのは何故か?子どもの頃のCaddyと成人してからのCaddyが異なった印象なのは何故か?兄QuentinがCaddyと恋人との仲をさき,家族が彼女に南部の理想的な貴婦人像を体現するように求めたことで,Caddyは多くの男性と性的交渉を持ち,父親のわからない子どもまで宿したという批評通りなのだが,そういう心の状況に至るプロセスはどのようなものなのか?母親が母親らしくない,父親が酒に溺れる家庭に育つというのは,どういうことなのか?一体何が起きていたのか?

これまで,心理学的な側面から,FreudやLacanの精神分析を使って説明しようという試みが多数なされてきた。しかし,そうした様々な試みによっても,Caddyはつかみどころがなく,逆に,それが多くの批評家を惹きつけてきた。

そうした批評家の末席から,私自身は,FreudやLacanではなく,Freudに影響を受けた様々な精神科医や心理学者の理論からCaddyについて考えてみたい。

Freud以後の今日に至る新たな心理学による分析に対して,「時代や社会の状況が異なる」というご意見もあろう。確かに,今日は,この作品が書かれた1920年代より遥かに複雑化している。今日の社会や個人を分析する精神分析及び心理学が,20年代の作品に登場するCaddyの分析に当てはまらない部分は当然ある。

しかしながら,今日から見ると,Freudが行った患者の分析では不充分だったというものもある。今日新たな名称を与えられている心の病気で,当時も存在していたが,当時は分析しきれないまま,他の病名の範疇にあったものもある。よって,私は,Caddyを,女性患者の多い,今日でいう境界性パーソナリティ障害の状態にあったのではないかと考えている。

そこで,先に挙げた様々な問いに答える形で,人格の変容,機能不全家族,家族というシステム,ハラスメント,社会の要請等をキーワードに,様々な視点からCaddyに何が起こっていたのかを分析していきたい。Caddyは,Faulknerという作家が創造した架空の存在にすぎないとか,他方,彼女の内面が描かれていないのだから,三兄弟の視点から見た像に過ぎないという見方もあろう。しかしながら,この障害の症状を示す女性をFaulknerが描くことができたのは,心の内で何が起きているのかは不明でも,こういう症状を示す女性が当時いたからではないか。また,Marilyn Monroeもこの障害だったのではと言われているが,当時はまだこの病気は解明されていなかったので,今日になって,そうだったと推測されるのみである。欧米のみならず日本でも,今日多くの症例が見られる境界性パーソナリティ障害について,この作品により多くの人々の理解が深まるとしたら,それは,文学の「持続可能性」への道を開くかもしれないように思う。仮に,そうしたことに寄与できるとしたら幸いである。