山根 亮一 慶應義塾大学(院)
航空ショーに群がる曲乗りグループと匿名のreporterを扱う非ヨクナパトーファ小説Pylon (1935)は,William Faulknerのキャリアにおいて異質な作風と表層的な造形のため日陰の存在であったが,近年ではTaylor Hagoodの間テクスト性を巡る議論や,John T. Matthewsのマクロな歴史的視点により少しずつ脚光を浴び始めている。しかしこれまでの議論で見落とされてきたのは,同時期に執筆された傑作Absalom, Absalom! (1936)で深遠な歴史観を提示したこの作家と20世紀アメリカ国家像を連結するための,より広範かつ詳細な言説空間の議論であろう。
Pylon が表出するのはHomi K. Bhabhaが論じるナラティヴの権利である。匿名の主人公であるreporterはしばしば酩酊しており,その職能にも関わらず語り手として全く機能していない。その空疎を埋めるかのごとく,遍在する拡声器の声が沈黙した社会を満たし,消費社会における大衆を産出する。その力動的な不均衡と連動し,全体を通してJoyce的な機械言語が作品内を闊歩しており,作品全体の茫漠とした雰囲気を増長している。とはいえ,このモダニズム的疎外はあくまで作品の別のアクセントを示すための特徴に過ぎない。Feinman大佐とアメリカ航空技術協会の前でRoger Shumannの危険な飛行機の所有権を偽証するreporterは,Faulknerのコミュニケーションに関わる問題を明確に体現している。Bhabhaにとってそれは,陶酔/アウラと交渉/アゴラの分節化の問題であろう。結果的にRogerが標識塔に激突し,観衆を避けながら湖へと墜落死するという英雄的なニュースを産出してしまったreporterは,意図せずとも語り手のin-betweenな「人間」存在を露呈させている。この時,読者は内在的に物語の創作構造を体験するのと同時に,読者の視線自体を問題化させる二重性を要求される。この二重性は,他者へと開かれた陶酔を保障するために,ひいてはナラティヴの権利を保障するために不可欠な要素となるが,ではこのナラティヴの権利は何を主張するのか。
架空でありながら,現実の空間への繋がりを持つNew Valois(New Orleansがモデル)でどさ回りの曲乗りグループが飛翔するのは,単なる空に限定されない。彼らは戦争の世紀を特徴づける軍事大国としてのアメリカ像と密接に関わる言説空間を彷徨する。生井英考によれば,世紀転換期における航空技術への憧憬から,21世紀まで貫通する「帝国」アメリカの制空権への希求に至るまで,飛行機のメタファーは植民地主義の文脈において示唆的である。また,空のメタファーはテクスト内において修辞的な事実を構築し,拡張と覇権への欲望を裏付ける場所となっている。Shumannの飛行機の所有権を巡る場面では,Feinman大佐はFranklin D. Rooseveltと,そしてアメリカ航空技術協会(American Aeronautical Association)は同時代のAgricultural Adjustment Administrationと接続可能であり,この時Feinmanは空に農業調整法は無いと述べることでShumannを援護する。そうしてこの飛行機の不具合によりパイロットは死に至るのだ。以上の視角より,本発表は,大戦間期のアメリカ植民地主義と分節化される航空機文化に対してナラティヴの権利を主張する唯一のFaulkner作品として,Pylon を考察する。