豊穣なる空間——亡霊のアメリカ文学
近年,私たちの注意を引くのが亡霊/幽霊という言葉である。Edgar Allan Poeやナチの亡霊,9.11自爆テロによる犠牲者の亡霊は言うに及ばず,亡霊が棲む世界を意味する異界という言葉をしばしば見聞きする。太田好信の『亡霊としての歴史』,Jacques DerridaのSpectres de Marx など亡霊を冠した研究書があり,また文学作品としてはEdith WhartonのGhost Stories,Toni MorrisonのBeloved やLove,Fred D’AguiarのFeeding the Ghosts など,枚挙に暇がない。さらに批評理論の分野では,西洋文学のリアリズムに対抗して1960年代に南米で生まれたマジック・リアリズムが,ヒスパニック文学を越えたところで作品を分析する際に用いられている。こうした一連の現象をどのように解釈すればいいのだろうか。本ワークショップは,この問いに答える作業の一環である。
- 「ハート・クレインの亡霊——招魂のパラドックス」では,東雄一郎が,夭折の詩人Hart CraneのKey West の亡霊を中心に,The Bridge にも触れながら,その異界巡りを照射する。Key West の“O Carib Isle!”には,「死者たちの足」,絞首刑にされたキャプテン・キッドの亡霊,Moby Dick のエイハブ船長の亡霊が,南洋の「巡礼の旅人」として登場する。King Learの放浪をエピグラフにする“The Mermen”にも墓場や「地獄」としての海が描かれている。“Imperator Victus”ではインカの皇帝アタワルパの亡霊が呼び寄せられている。本ワークショップでは,T. S. EliotのThe Waste Land の悲観主義的な瞑想世界に激しく反発し,アメリカと人類の未来を賛美するThe Bridge の肯定的な世界を表した詩人が,実は,多種多様な死者たちの招魂を行っていたことを検証する。
- 「チカーノにおける亡霊——ロン・アリアス『タマスンチャレへの道』とアストラン」では,井村俊義が,チカーノの亡霊を主題に生者との交錯,またその影響について探求する。アメリカ合州国の文学史においてあまり言及されることのないチカーノもまた,亡霊の世界を意識的に導入することによって国家原理とは異なる地平を築いてきた。たとえば,マリンチェ,グアダルーペの聖母,ラ・ジョローナ,ホアキン・ムリエータらは,いまを生きるチカーノにも影響を与え続けている「亡霊」である。それらの亡霊は生者とどのように交錯し影響を与え続けているのか。その問いに応えるために,チカーノの想像上の故郷であるアストランを「亡霊と生者が住まうボーダーランズ」と捉えることから考察し,そのための重要な視点を与えるRon AriasのRoad to Tamazunchale を取り上げる。
- 「西インド諸島における亡霊的なるもの」では,梶原克教が,カリブ海につきまとう「亡霊的なもの」について考察を行う。西インド諸島のひとつマルティニーク島には,Le Pays des Revenantsという詩的な呼び名がある。revenantsというフランス語に「戻ってくる人たち」という意味と「亡霊たち」という意味があることから類推すれば,この島は「人々がまた訪れたくなる島」であると同時に「亡霊たちの島」だと考えることができる。Lafcadio Hearnが指摘するように,マルティニークに限らず,カリブ海諸島には「亡霊」のイメージがしばしばつきまとう。その「亡霊的なもの」とは何なのか?歴史の木霊という意味,あるいは,地域に住み着く地霊という意味も考えられる。本ワークショップでは,Derek Walcottによるポート・オブ・スペインの描写を手がかりに,カリブ海の「亡霊的なもの」の本質を読みほぐしてゆく。