永野 良博 上智短期大学
David Foster Wallace作Infinite Jest (1996 )は、20世紀末から21世紀初頭のアメリカ自由主義、資本主義社会において、作中人物が熾烈な個人間の競争を通して、自己実現と社会的成功へと自らを駆り立てる姿を描いている。だが作品が特に着目するのは、彼等の中でも生きること自体に圧倒され、人生の歯車が狂い、生活が制御不可能な状態に陥っている人々である。Wallaceのアメリカにおいては、野心と競争が社会的、文化的原動力であり、人々を階層制度の中で上昇するよう突き動かすのだが、同時にそれは目的の達成に失敗した人々を厳しい精神状態へと追い込んでゆく。彼等は自己実現と成功への機会を可能な限り活かし、幸福を最大限に追求するため、殆ど不可能と思われる目標に向かうのだが、常に不安に苛まれ、さらに失敗が原因となる敗北感、無力感、絶望感に支配されることになる。そのような精神状態が彼等をアルコールと薬物の乱用へと導く。
Infinite Jestの中心的物語は、ボストンに位置するEnfield Tennis Academyで展開され、競争原理に貫かれたエリート教育機関で学ぶ学生は、成功への野心に取り付かれ、テニスランキングの階段を可能な限り上昇すべく悪戦苦闘する。本発表ではまず彼等がいかにして心を蝕む敗北感と無力感に対峙するのかに注目する。そのような感情に彼等は禁欲的かつ厳しい自己鍛練を通して対処しようと試み、さらに自らの野心的な目的を成就するため精神的及び肉体的な意味において自己への配慮を行う。自己への配慮は個人の持つ独自性と卓越性を求める闘争において、重要な要素であると考えられる。その主題の探求のため、哲学的及び心理学的なアプローチを用いて、自己の問題を扱ってゆきたい。その際に中心的な作業となるのは、E.T.A.が重視する競技者の哲学の分析である。競技者の哲学がいかにして自己実現、自律、競争相手である他者との関係等の問題と関連し、作中人物の自己への配慮を成功へと、或いは失敗へと導くのか検討してゆきたい。
若きアスリートの自己への配慮と同時に議論すべきなのが、生活が破綻し絶望的な無力感へと陥った大人達である。彼等はエリート教育機関であるE.T.A.の傍に設置されたEnnet House Drug and Alcohol Recovery Houseと呼ばれる社会復帰施設で暮らす人々である。そこで住人達はアルコールと薬物への依存を断ち切るため、社会復帰プログラムに参加し、或る者は自己鍛錬を行う。若きアスリートそして社会復帰施設の住人が提示する自己への配慮の持つ可能性を検討し、彼等が個人を圧倒する殆ど制御不能な生にいかにして対処し、生き延びてゆくために人生の技術者へと自己形成を行ってゆくのか探りたい。さらに道徳性の生物学的な起源と無力さとの関係を分析し、或る登場人物が示す生き延びるための術を一つのモデルとして提示したい。それはWallaceが描くような文化的、社会的力によって疲弊させられ苦境に立たされた人々を、導くための一助となり得ると考えている。