加茂 秀隆 一橋大学(院)
初期から後期に至るまでの長短様々な小説で、Henry Jamesは一貫して(死者との同一視や死者の魂等を含めた)幽霊と贈与を描いており、そこにキャリアを通じての彼の強い関心が示されているように思われる。この二つの主要テーマには何らかの関連性があるのではないのか、こう仮定した場合、これらが示す布置から何が垣間見えるのか。本発表では、主要長編小説ではなく初期と後期の短編小説を中心にこの問題を分析する。アルファとオメガを押さえることで、幽霊と贈与に関するJamesの関心の基底部を効率的に読解可能なように思われるからだ。
“The Ghostly Rental”(1876)や“The Bench of Desolation”(1910)では、収奪された富が市場交換を経て増幅し贈与されて回帰する。同時に、この回帰はある種の取り引きとしても表象されている。贈与と取り引きの不可分な関係、これは「与えつつ奪う」(Derrida)という贈与の本質に適うものだ。このように考えたとき、“The Romance of Certain Old Clothes”(1868)、“The Ghostly Rental”、“The Third Person”(1900)、“The Jolly Corner”(1908)においては、分身・幽霊の発生が、富の回帰と結びついていると言えるのではないだろうか。つまり、自己が自己ではないものとして回帰するという分身・幽霊の発生は、富のある種の贈与として回帰の比喩と考えられるのである。ここでも、市場交換が分身・幽霊の発生の契機にしばしばなっている点は重要であるように思われる。
ここにJamesは何を見ようとしていたのか。表象不可能なもの、正常な表象の外におかれるもの、現実には存在しえないものとしての幽霊が、市場交換を蝶番にして贈与と結び付く理由は何か。資本主義社会の成立期を描こうとしたJamesにとって、市場原理による合理的交換を旨とする資本主義社会に対し、贈与とは市場原理を逸脱する外部だからであり、それが表象不可能な構成的外部として資本主義社会を成立させているからなのではないのか。だが見方を変えれば、贈与という幽霊の発生もまた、あくまでも資本主義市場交換という外部を必要とするによるに思われる。資本主義市場の過熱化や機能不全による幽霊の発生をも、示唆できればと思う。資本主義市場交換は贈与という幽霊に憑りつかれている、Jamesのイマジネーションはそう描こうとしていたのではないだろうか。