高市 順一郎 桜美林大学 (名)
本発表では、Wallace Stevensの最も優れたメジャー作品とされる三大長詩について、それぞれ3分の1の抜粋訳を掲げ、時間のあるだけ、簡潔に作品論を試みてみたい。
素人詩人の奇抜な発想、素人哲学の独創的原理
“Notes Toward a Supreme Fiction”「至上の虚構のためのノート」
—詩の最高値は「絶対の虚構」「奇抜の諧調」である
Stevensの詩は、「修辞と音感的風韻の壮麗」があるが「ナンセンス」や「グロテスク」の雑駁が多いとR. Lowellに評され、また、Mathiesenから「想像力がリアリティーにプラスを与える・・・思弁」が巧みであるが「だらしのない繰り返し」や「とりとめのないおしゃべり」が多すぎると難じられた。が、これはハーヴァード大学の創始者の一人だったEmersonのSelf-Reliance, Transcendentalismの独創力、発明性にかかわる美点としての奇想天外、天衣無縫という長所を指し示していた。
言うこと(主題)を持たない詩人はスタイル(修辞)で持つ?
“The Auroras of Autumn”「秋のオーロラ」
—「至高の目と最深の耳」「秘蹟のシラブル」
Stevensは自分の素人性を脱するためか、ヴィーコ、ヘーゲル、I. A.リチャ—ズ等を取寄せ、1940年代の始めからNecessary Angelに収録される文学論の講演を始め、48年イェール大学で“Effects of Analogy”—「詩は詩人の世界感覚と・・・種々の個別的リアリティー(実在/真実)から構成された超越的アナロジー(類似比喩)である」、同年コロンビア大学で“Imagination as Value”—「想像力は非現実unrealなものを実在的真実realに移しかえる能力である」等の仮説原理を打ち立てた。
もっと面白い、創作上、重要な仮説が、51年マウント・ホリヨーク大学講演の「言うこと(主題)がない詩人は大抵、自分が言うことのスタイル(修辞)で持っている」とのオクシモーロンの逆説だった。
こうしてStevensは、大詩人としての地歩を固め、“Uncanny clairvoyance” の視界を見すえ、“Crisis-poem” (破局創造の詩) の磁場を拓いてゆく。
Harvard:「Omlyn’s Pump」/ Yale:「秘密クラブ」
Imaginationは Extraordinaryを志向する, Reality は“Ordinary”と “Commonplace” に依るがよし
“An Ordinary Evening in New Haven”
—「詩は思考の明視性Visibility of Thoughtにある」
Harold Bloomは「この第二の長詩は<リアリティー>についての考えが途方もなく夥しすぎ、批評家の解釈が齟齬を来し、その極致について疑義が止まず、テクストを読むことがほとんど不可能である」としている。
我々にも解釈に窮する箇所が幾つかあるが、こういう場合は、Poundが自作の大詩篇『カントー』をConvergent<一点集中>、Coherent<理路整然>を欠く故に「Botch失敗作」であるとしたようにすべき筈である。Stevensはそうせず、代わりに“Reality”を “Ordinary”, “Commonplace” にデフレイションさせることで筋を通そうとした、と思われる。
中心的なフィギュアとして南方的な空疎な喬木に見える「ユーカリ教授」が名指されているが、これはハーヴァードの有名無実のSantayana教授の威光の前でイェールのThornton WilderやBrooksらをカリカチュアするものかと怪しまれたが、Bloomによれば、“Imagination” と“Reality”を差配する困難の中でHéro Manquéに堕する危殆にあったStevens自身のパロディーと解される。