矢倉 喬士 大阪大学(非常勤)
「コズモポリス(世界都市)」とは何であろうか。本発表で扱うDon DeLilloのCosmopolis(2003)の舞台となるのは、「人種のるつぼ」と称されたニューヨークであり、まさにコズモポリスと呼ぶにふさわしい。しかしながら、Cosmpolisは、雑多な人種が集まった結果として世界的な都市が出来上がるのではなく、個人の内には既に雑多な時空間が組み合わさった世界都市が存在することを克明に描き出している。28歳にして巨万の富を築いた投資家Eric Packerは、リムジンの中にいながらにしてウェブによって世界中の情報に接続されており、時差に鑑みた場合にニューヨークからは半日未来にあたる日本円の動向を予測している。Ericという個人の体には世界中の時間と空間が流れ込んでいるようなものである。
DeLilloはThe Names (1982) においても、知らぬ内に世界中の人々を搾取するアメリカ企業を描いたが、Cosmopolisはそれを遥かに上回る規模の物語である。中でも、クライマックスとも呼べる、裸体の群れの映画撮影シーンをアウシュヴィッツの記憶と重ね合わせるPeter Boxallの読みは示唆に富んでいる。サイバー資本家は世界中から利益を上げておきながら、企業の末端で働く生身の労働者の個人的歴史や苦痛には関心を持たない。彼らが参照するのはスクリーンに映るデータだけであり、それは「生身の身体」を持つ労働者たちへの認識論上での殺戮行為に等しい。ここからは「サイバースペース的な時空間」に傾倒し、「生身の時空間」を軽視するサイバー資本家への批判が読みとれるように思える。しかしながら、私たちはEricのようなサイバー資本家に対して、批判だけを加えられる立場にはない。とりわけ、Ericがかつての従業員であるBenno Levinによって射殺されるラストシーンを、一部の批評家が分析しているように「身体性への回帰」と解釈してはならない。前作にあたるThe Body Artist (2001) でも追求されていたように、私たちはみな、「確かな現在」や「今ここにある自分」を持つことができず、過去や未来、そして見知らぬ誰かに侵入されているようにして生きているのだから。このことを意識して初めて、虚構上での一人のサイバー資本家の物語は、私たち自身の問題へと引きつけられるであろう。
本発表では、小説のタイトルである「コズモポリス(世界都市)」を、回帰すべき時空間の本来性を持たずに、世界中の異なる時空間に開かれている私たち一人ひとりの体そのものとして考察し、巨万の富を持つサイバー資本家に留まらず私たち自身がいかなる種類の経済的・認識論的搾取の犠牲となり、またそれに加担してもいるのかを明らかにしたい。