堀内 正規 早稲田大学
いたずらに批判の的にしないで,いまEmersonのどこをどう読む(べき)か。本発表では,Stanley Cavell, Richard Poirier, Sharon Cameron, Susan L. Field, Branka Arsićら、思想的なアプローチから優れた見直し作業をしてきた先行研究に随時言及しながら,エマソンの〈自己(self)〉の捉え方について,同種のアプローチを,しかし自分なりのスタンスでしてみよう。他なるものをappropriateする資本主義のイデオローグのような、個人主義の強化に掉さすエマソンという見方は、幸いにもようやく過去のものになりつつある。逆に,受動性,receptionを核とするエマソンを、わたしも語りたい。
主な考察の対象として,1844年刊行のEssays: Second Series所収の“Poet”と“Character”の二つのエッセイを取り上げる(補助線として“Gift”にも触れながら)。カヴェルに端を発するエマソンの思想的捉え直しにおいてpivotになってきたエッセイ“Experience”を間に挟むこの二つのエッセイは、一方で生成・流動を主観性の中心に据え、他方である種の揺るがなさとしての個性を肯定している。何ものにもなり得るmetamorphosisを軸とした想像力を謳うことと、置き換え不可能な〈その人らしさ〉の魅力を語ること—その意味で両者はエマソン的な自己の表と裏のようにも見える。だがそれはエマソンにおいて決して分裂ではなかった。双方において他方と還流し合うようなロジックやモチーフがあり、エマソンはあたかも両極が一人の人間(の行為)において常に統一されていることの不思議に打たれているかのようだ。Melvilleの主人公のように “No! in thunder”を発し,破滅も辞さずに解き得ないdichotomyにとことん身を委ねる人間のイメージの対極に、ふつうの仕事をする生活者の継続する日々(あるいは現実?)を、なるべく不自由なく生きるために、バランスをとるエマソンがいる。いずれにも偉さがあると思う。
壊れやすいふるえる自己。他者を所有の対象にしない自己。他人から褒められたときに必ずfearを感じる自己。以前わたしは論文の中でこれを「君の友を君自身から守れ」というエマソンの言葉を中心に捉えたことがある。“Character”の中の“Are you victimizable?”という問いは、誰もが本来的に可傷性を持つとみなし、他者の傷つきやすさを常に意識に繰りこもうとするエマソンの思想態度を端的に示している。エマソン独自の、魅力ある他人に対して自己の〈至らなさ〉を感じるような主観性のあり方に着目しながら、倫理性、(日常)言語への態度、詩人としての(人間の)位相、カテゴライズする体系の否定、見出しながらその都度の基礎づけをする態度など、上記の先行批評の論点もふくめて考察し、 Paul StandishのBeyond the Self (日本語版『自己を超えて』、2012)が批判的な乗り越えを目指す西欧近代的な自己(「つつしみ」の欠けた男性的な自己)の、エマソンならではの超え方(あるいはそれのずらし方、他者への応答責任を含みこんだ開かれ方)について語ってみたい。