1. 全国大会
  2. 第53回 全国大会
  3. <第1日> 10月4日(土)
  4. 第1室(2号館1階11番教室)

第1室(2号館1階11番教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
城戸 光世

1.視線の彷徨—The Marble Faunにおける同性愛的欲望の潜在

  立教大学(院) : 加藤 惠梨香

2.「病んだ罪深い心」—Nathaniel HawthorneのThe Scarlet Letterにおける病の隠喩

  宮城学院女子大学 : 田島 優子

鈴江 暲子

3.へスター・プリンの妹たち—AlのHagar とCaroline Chesebro’のIsa, a Pilgrimageを読む

  関西学院大学(名) : 大井 浩二

 

4.セッションなし



立教大学(院)加藤 惠梨香

 

修道僧殺害事件に巻き込まれる2組の男女カップルを描くNathaniel HawthorneのThe Marble Faunにおいて、ホモエロティックな関係は直接言及されていない。しかしPatricia Pulhamが指摘するように、KenyonからDonatelloへの、またHildaからMiriamへの同性愛的欲望は、4人のあいだの三角関係(Donatello, Kenyon, Miriamの関係、Miriam, Hilda, Kenyonの関係、Miriam, Hilda, Donatelloの関係)のうちに暗示されている。本発表では、Miriamに付きまとう迫害者も含めた5人の登場人物たちが絡んだ三角関係について、同性愛的欲望が異性愛的欲望のうちに潜んでいることを、視線の方向性に着目することで明らかにする。

まず、MiriamとHildaの同性愛的関係の可能性は、KenyonやDonatelloが彼女たちを欲望することでより想像しがたくなる。同様に、KenyonとDonatelloのホモエロティシズムも、MiriamやHildaとの異性愛によって隠蔽される。2組の異性愛関係のうちに同性愛的欲望が潜むことを端的に示すのが、彼らの視線である。Donatelloは迫害者に注視されるMiriamを見つめ、Hildaは見つめあうMiriamとDonatelloを凝視する。こうして、キャラクターたちのあいだで視線が交錯する。このようなヘテロセクシュアルな関係を見つめるもう1人の視線は、異性愛関係に介入するホモエロティックな眼差しとして機能する。修道僧殺害を引き起こすMiriamとDonatelloのアイコンタクトを目撃したHildaは、その後、鏡に映る自身の表情とBeatrice Cenci像との重なりを“timorously” に認識する。その場面は、Hildaの、自らの同性愛的欲望に対するリアクションを描いているとも言えるだろう。また、KenyonがMiriamとDonatelloを引き合わせた際、周囲のイタリア人が3人に向ける視線は、それを説明する“curiously”という単語と相俟って、彼らのあいだの異性愛関係のみならず同性愛的欲望をも見通すものであると考えられる。

さらに、MiriamとDonatello そして迫害者の関係はNina Baymが指摘するように、“Oedipal Triangle”の変形として見なしうる。しかし、Donatelloにとって迫害者は倒すべき敵であるとともに、同一化したい対象でもある。Donatelloは、Miriamを凝視の対象とし、彼女を欲望しながら、彼女を追い続ける迫害者になることも望む。迫害者に同一化したいという彼の望みは、ホモソーシャルな願望としても定位しうるだろう。このように5人の間に結ばれた異性愛関係において、彼らの交錯する視線は、隠されたホモエロティックな欲望を示している。一見するとThe Marble Faunという作品は、異性愛関係を成立させるために同性愛的欲望を否定するかに思える。しかしながら、本作品が同性愛的欲望を完全には隠蔽できていない点を強調すれば、異性愛関係において同性愛的欲望はむしろ必要な触媒として存在するとも言えるのではないか。


宮城学院女子大学 田島 優子

 

本発表は、Nathaniel Hawthorne のThe Scarlet Letterにおける病の描写に着目し、隠喩としての病に与えられた多様なイメージとその変容に焦点をあてながら、作品に描出された罪の問題を再検討していく試みである。

Hawthorneはその経歴の実に始めから終わりまで、人間の心の闇や罪といった問題を描き続けた作家であったが、これらの罪が頻繁に病の隠喩によって描出されるということは興味深いことであるように思われる。この顕著な例としては、1838年に出版された“Lady Eleanore’s Mantle”が挙げられる。この作品においてEleanore婦人は天然痘という災いを町に招くことになるが、彼女の持つ貴族としての“pride”は、The House of the Seven GablesのPyncheon家の“pride”という罪を彷彿させるものである。

罪が病の隠喩によって描かれるものとしては、Hawthorneの代表作とされるThe Scarlet Letterもこの例外ではない。例えば姦通の罪を犯したHesterや、罪を隠し続けるDimmesdaleは、ともに「病的な」という語彙や病的な症状によって形容される。登場人物のChillingworthは、通例それだけで完結しているものとみなされている身体的な病が、実は精神の病の一兆候にすぎないのかもしれないという可能性を作中で指摘しているが、病は症状によって目に見えるものへと具現化することによって、罹患した者の秘密を暴露してしまうのであり、隠そうとするものが表面に現れ出てしまうことへの作者や登場人物の懸念が、ここから読み取ることができるように思われる。

病の隠喩によって描かれていく人物として注目すべきなのは、罪を告白できずに心身ともに衰弱していくDimmesdale牧師であろう。この牧師の見せる無気力状態やそれとは反対の躁状態、体力の衰えからくる人格の神秘化といった特徴は、結核の症状として考えられていたものの典型であるように思われる。Susan Sontagによれば、結核を始めとする流行病には恐ろしいものやロマンティックな死といった多様な神話が付与されるが、医学の発達とともにその病がもはや「不治のもの」でなくなると、それは特有のイメージを喚起することを終えるのだという。Dimmesdaleの罪が結核を思わせる病の隠喩によって語られるとき、この登場人物は民衆の間で神秘的な病を持つ者としての役割を引き受けると同時に、作品の執筆された時代、すなわち19世紀的な視点から罪に光を当てようとする語り手の、隠喩としての病を相対化する試みを引き受けてもいるように思われる。

以上のようにThe Scarlet Letterにおける病の隠喩は、作者の呈示する罪の問題と絡み合いながら重層的な構造をなしている。本発表では、このことに焦点を当てることによって、結末でのDimmesdaleの罪の告白の意味するものを再検討していきたいと思う。


関西学院大学(名) 大井 浩二

 

詩人としてのAlice Cary (1820-1871)の名前は文学辞典の類いにも出ているし、短編作家としての彼女の作品はClovernook Sketches and Other Stories (Rutgers UP, 1987)で読むことができる。だが、彼女の長編小説Hagar: A Story of To-day (1852)やMarried, Not Mated (1856)については、その題名さえ耳にしたことがないという読者がほとんどではないだろうか。とりわけ、Hagarという長編小説は、“regionalist”としての彼女の短編を高く評価するAnnette KolodnyやJudith Fetterleyによっても無視され、Woman’s Fiction (1993)の著者Nina Baymにいたっては、この作品を“so badly written”と酷評し、“Cary was a feminist, a poet, and an adherent to outdated images of women.”(強調引用者)と切り捨てている。

他方、Isa, a Pilgrimage (1852)の作者Caroline Chesebro’ (1825-1873)の場合、同世代のAlice Caryよりもさらに知名度が低いかもしれない。彼女はIsa, a PilgrimageのほかにChildren of Light (1853)やGetting Along (1855)といった長編小説をつぎつぎに発表して人気を博したが、現在の彼女は正当に評価されているとは言い難い。The Oxford Companion to Women’s Writing in the United States (1995)の項目執筆者は、“primarily domestic and sentimental plots that end with an obvious moral” を好むChesebro’ が女性の登場人物を“something akin to angels”として描いている点に触れて、“Typically, these women are finally rewarded for their uncomplaining self-sacrifice and simple goodness”と解説しているが、こうした評言がIsa, a Pilgrimageに当てはまるとは到底考えられない。

この同じ年に上梓されたHagar とIsa, a Pilgrimageを、Truth’s Ragged Edge (2013)の著者Philip Guraが“7 Unappreciated American Novels”のリストに載せたのは、そうした状況を意識したからだろう。本発表では、2冊の小説が2年前の1850年に出版されたThe Scarlet Letter の終わったところから始まる物語であることを明らかにするために、愛する牧師に捨てられて未婚の母となったHagarと、正式な結婚をしないまま相手の男性との間に子どもをもうけたIsaがたどった人生の軌跡を、Hawthorneの作品の結末でHester Prynneが抱いている“her firm belief, that, at some brighter period, when the world should have grown ripe for it, in Heaven’s time, a new truth would be revealed, in order to establish the whole relation between man and woman on a surer ground of mutual happiness”と関連づけながら検討してみたい。