安田 努 明治大学(非)
本発表では、Herman Melville の遺作である Billy Budd, Sailor (1924)の Vere 艦長とベンサム主義との関連について考察する。ベンサム主義は、一般的には、功利主義の名称で広く知られている。この哲学は、イギリスの哲学者・法学者であった Jeremy Bentham(1748-1832)によって提唱され、「最大多数の最大幸福(the greatest happiness of the great number)」の実現をスローガンとして掲げる。すなわち、個人の欲望を肯定し、自己利益優先という現実の人間の普遍的傾向を利用することによって社会全体の幸福を実現しようとする哲学である。したがって、人々の幸福(利益)を増大させる政策は善であり、不幸(不利益)をもたらす政策は悪ということになる。ベンサム主義は、 Billy Budd の舞台の設定年代である18世紀末の産業革命下のイギリスで生まれた新しい哲学であり、伝統的な道徳観と真っ向から対立することから、Thomas Carlyleらによって厳しく批判されながらも、初期資本主義の社会規範の形成に決定的な影響を与えた。
ベンサム主義への Melvilleの批判的な態度は、Moby-Dick (1851)、 Pierre (1852) や晩年の詩のなかに一貫して見受けられる。さらに、興味深いことに、Melvilleはヴィアの登場に先立つ前半部で「戦争の功利主義者(martial utilitarians)」「戦争のベンサム主義者(Benthamites of War)」という独特の表現を用いている。彼らは、戦争においても合理的な功利性を追求し、Vereとは対照的な存在である Nelson 提督を批判する人たちである。このベンサム主義へのさりげない言及は、のちに登場する Vereと結び付けようとするMelvilleの意図を感じさせる。実際、Vere とベンサム主義の間には、いくつかの共通点がある。まず、Vere の価値基準が「幸福」にあること。次に、「厳格な軍律家」と表現されるように、彼が徹底した法実証主義者であること。そして、特に問題としたい点は、「規範」や「秩序」を強調しながらも、 Vere個人に利己的な「野心(ambition)」があったこと。物語の後半で、Vereは Billy の絞首刑判決という政治決着をつけるが、その際の彼の手法は極めてベンサム主義的である。本発表では、Vereの性格と言動に注目し、彼が18世紀末のイギリスと19世紀のアメリカの資本主義社会の負の部分を象徴するベンサム主義者として描かれていることを探っていきたい。