緒方 けいこ 東京都立大学(院)
F. Scott Fitzgeraldの The Great Gatsby は、中西部出身のNick Carrawayが、1922年の夏、ニューヨーク郊外で出会ったJay Gatsbyと名乗る男の死を回想する、という物語構造をしている。一人称の語り手Nickを設定したことが Gatsby の成功の要因であるというのは、長いあいだ批評史的常識であったのだが、近年このNickの語りが内包する、数多くの看過しがたい矛盾が指摘され、Nick の語り手としての「正直さ」のみならず、物語の内容やクロノロジーを制御することのできないFitzgeraldの作家的力量すらも問い返されている。
1991年に出版されたCambridge版の Gatsby においてはMatthew J. Bruccoliによって、クロノロジーにかかわる部分の整理が「付録」で行われているのだが、物語上の矛盾を鋭く指摘する批評家たちは、ずば抜けて数の多い「物語上の齟齬や隘路」が、従来この作品に対して行われてきた評価や議論の可能性を限定すると指摘し、さらにはそれらを看過してきた批評家をも批判する。
代表的なのはThomas A. Pendletonである。Pendletonは、1993年に出版された I’m Sorry about the Clock において、Gatsby のクロノロジーにかかわる矛盾を詳細に検討したうえで、Nickは殺人事件の真相を暴露する物語をなぜ書いたのか、という疑問を呈している。筆者はPendletonの疑義に一定の同意を表明するものだが、本発表では、Gatsby における矛盾を物語の欠陥としてではなく、Gatsbyとの出会いと死を物語るNick、すなわちGatsbyの生と死に意味を充填するNickの語りにおける「症候」としてとらえ返し、Nickがなぜこの物語を語ったのか、という問いへの応答を試みる。物語の冒頭、NickはGatsbyのことを「ぼくが心からの軽蔑を抱いているすべてのものを一身に体現しているような男」としながらも「最後になってみればGatsbyにはなんの問題もなかったのだ」と語る。Gatsbyが、いわば人まちがいのすえに殺され、その真相を秘匿したまま中西部に戻ってきたNickが、「正直もの」を自認しつつ、Gatsbyの死の真相に関する多くのことがらを「語らない」あるいは「語りそこない」ながらもGatsbyの死を物語るのはなぜか。その語りにどのような欲望が潜んでいるのか。これらの問題点を、Gatsbyを語るNickの欲望のみならず、Gatsbyの死を神話化してきた批評的欲望を視野にいれながら考察したい。