堀内 正規 早稲田大学
21世紀にEmersonを、批判的にではなく肯定的に読み直すとしたら、たとえばどういう視点によってそれは可能になるのか——本発表では、その問いに「初期エマソン」のテキストを身体性・身体感覚を基盤に据えて再評価することで答えてみる。その入り口として、いわゆる“Divinity School Address”(「神学部講演」、1838)を取り上げる。言うまでもなく、この講演は当時のニューイングランドにおける制度的なキリスト教の批判を通じて、キリスト教のみならず、ひろく人間の〈宗教性〉全般について〈リニューアル〉を試みたものだが、このエマソンによる〈宗教性のリニューアル〉に今日から見て(まだ)どのような可能性が読みとれるだろうか。
一見きわめてetherealな、とも見えるエマソンの言葉の向こう(裏側)に、彼が日々の日常の中でコンコード、とりわけウォールデン・ポンド周辺で経験していた自然との交流(接触)、その身体的な感覚の働きを探り当てること。エマソンの日記(journal)を参照しつつ、彼が公けにしたテキストを、そのメッセージ面(主張・オピニオン)にむしろ逆らうように身体性をベースとして(その意味ではエマソンの〈思想〉のdogmaticな部分を「転倒」して)評価し直すことがおそらく可能だ。たとえば1836年12月9日に彼がウォールデン・ポンドを覆う溶けかかった薄い氷の表面に何度も石を投げて遊んだ経験と「神学部講演」の‘Good is positive. Evil is merely privative, not absolute.’といった主張とはどういう風に繋がっていたのか。そうした問題を考えることで、エマソンが当時倦まず弛まず繰り返して主張していた大文字のLで始まる‘Law’或いは‘Moral Law’という概念を、知的な思考のレヴェルよりもっと深いエマソンの身体のレヴェルにおける感覚の問題として受けとめることができるようになるだろう。
現代の場所からエマソンを(とりわけイデオロギー的な観点から)批判的に読むことはあまりにもたやすい。しかしエマソンの「可能性の中心」は彼のテキストをポジティヴに読むことによってしか見えてこない。もしもエマソンにはもう「可能性」などない、と考えるのではないとしたら、ということだが。