妹尾 智美 関西大学(院)
Nathaniel Hawthorneの The House of the Seven Gables (1851)(以下H7Gと略記)には、“Chanticleer and his family”という4羽の謎めいた「鶏」が登場する。従来の批評では、「鶏」は館のPyncheon家族の没落——階級意識によって血筋の純粋さを維持した結果——を体現する存在、と見なされるに留まる。確かに、雄鶏の名“Chanticleer”は、「鶏」がPyncheon家族の<寓意像>として描かれている可能性を仄めかす。Chanticleerは、中世以来の動物ロマンスや寓話の中で、伝統的に<爵位貴族>に重ねて描かれてきたからである。しかし、「鶏」に関する詳細な描写には依然として不可解さが残る。「鶏」は“guardian-angels”の一種族とされる一方で、「気が触れ」、「奇妙な外見や振る舞い」を特徴とする“humorists”とされているからである。伝統的な寓意的手法に加え、「鶏」は何を背景にして描かれているのか。
本発表では、Brook Farmを巡る当時の様々な記録や、GuarneriやDelanoら最近の19世紀ユートピア研究と、Hawthorneの虚構化されたBlithedaleを比較しながら、Hawthorneにとってユートピアという概念が何を意味していたのか、また彼のユートピア(ディストピア)表象と彼の社会批判とがどのように反響しあっているのかを、The Blithedale Romance や“The New Adam and Eve”などの作品を中心に探ってみたい。
Hawthorneは、ルネサンスにおいて再評価された<憂鬱質(メランコリー)>について強い関心があったと言われている。H7G では、“melancholy”という言葉が25回使用され、「鶏」の鳴き声も“a sleepy and melancholy tone”と表現されている。この事実は、「鶏」がPyncheon家族の<メランコリー>体質を体現している可能性を浮かび上がらせる。そこで、本発表では、謎めいた「鶏」について、ルネサンスにおける<メランコリー>の概念を背景に置いて考察する。
まず、「鶏」の外面的な特徴に焦点を当てたい。「鶏」には、病んだ<メランコリー>の表象として、羽毛には“speckle”、頭の上には“funny tuft”、両足には“knob”があるのだが、これらは同時に、<道化師>の伝統的な衣装である<まだら服>や、頭に飾る<とさか>あるいは<羽毛>、<鈴>にも重なる。<メランコリー>の病に冒され、<狂気>に陥り、肉体的な<不調和>をきたした人間の境遇、即ち、周囲の目には単なる<おどけ者>として映ってしまうという、<悲哀>を伴う状況が暗示されているのである。「鶏」に用いられた“humorists”という表現も、そのうわべの滑稽な様子が<メランコリー>の病と密接な関わりがあることを示している。“humorist”という言葉は、古代以来の四体液(four humours)の理論から生じており、<メランコリー>の概念とは切り離せないからである。
しかし、<メランコリー>は健全であれば<聖なる霊感>を生む<高貴な気質>である。Hawthorneが「鶏」を“guardian-angels”の一種族とし、“feathered people”とも表現するのは、デューラーの≪メレンコリアⅠ≫に描かれる、高貴なメランコリー像に結び合わせるためであろう。「妄想」に囚われ、肉体も病んではいるものの、Cliffordには「精神的かつ不滅の」“beautiful grace”が漂い、Hepzibahの「生来の気質」にも“something high, generous, noble”が存在するのは、彼らが<メランコリー>という優れた気質を受け継いでいるからであり、<寓意像>として存在する「鶏」は、この事実を物語っていると言える。
物語の結末において「鶏」が「卵」を産み始める場面は、CliffordとHepzibahの回復を暗示するものと考えられる。<メランコリー>による病は状況次第で回復する可能性がある。いかなる働きかけが、回復には欠かせない心身の<調和>を促したのか。最終的にはこのことについても検討したい。