野口 元康 東北学院大学(院)
J.D.Salingerによる Glass家の物語は芸術一家を題材とする。Glass家の兄弟たちはそれぞれ得意の芸術ジャンルを持つ、例えばSeymourは詩、Buddyは小説、ZooeyとFrannyは演劇である。従来の批評では、詩人としてのSeymourや小説家Buddyによる書く行為など個々の芸術活動に焦点が当てられてきたが、芸術ジャンルの差異が兄弟関係と深く関与していることは論じられてこなかった。また芸術ジャンルはSeymourの表象不可能性という問題にも関わっており、詩と小説の宿命とも言える関係を考察する契機となるため見過ごす訳にはいかない。
本発表の鍵となるのは詩である。Glass家の兄弟は詩を「美」を 芸術と考え、これに他の芸術ジャンルとは異なる地位を与えている。小説家Buddyは自己の芸術性を矮小化する傾向があり、他の兄弟も自分の芸術が「美」という言葉で語られることを忌避する。Seymour以外の兄弟は「美」を創造できず、詩とそれ以外の芸術の間には懸隔が意識されている。兄弟たちが兄の活動領域たる詩 芸術ジャンルを選択したことはSeymourの圧倒的な影響力(Harold Bloom的な「影響不安」)を示す有力な証拠となる。
Glass家の物語には、「美しさ」を理解できる人間と理解できない人間の対立が描かれている。Zooeyは母Bessieが「美」という言葉を軽々しく使ったことを窘める。“A Perfect Day for Bananafish” のSeymourは詩の「美しさ」を共有しようとドイツ語の詩を妻Murielに贈るが、MurielはSeymourの意図を理解しない。Murielの母親にいたっては、ドイツ語を読めない者にドイツ語の詩を贈る行為を異常と考える。Murielの母を典型とする一般人は異常さを理解するために精神分析に頼ろうとする。BessieもFrannyを精神科医にかからせようとした。しかし、Glass家の物語では、精神分析は文芸批評としても人間理解の手段としても強く批判されている。 “Seymour: An Introduction” においてBuddyは精神分析学派が「美」に惹かれず、病んだ芸術家を救えないと批判するのである。
Buddyは精神分析に代わり、小説という形でSeymourの行動や生涯を語る。しかし、Buddyの語るSeymourは実像と一致せず、Buddyは次第にジレンマに陥る。BuddyがSeymourを語れない背景には詩と小説という芸術ジャンルの宿命とも言うべき問題が関与している。 “Zooey” 冒頭の序文の中でBuddyは自分が語る物語を “prose home movie” と呼ぶ。Buddyは自分たちの人生が散文的な人生だと考えている。散文的な人生なら散文によって再現可能だが、詩人であるSeymourの詩的な人生を散文では再現できない。本発表では、Glass家における芸術ジャンルの問題を踏まえた上で、精神分析の「語り」を乗り越えようとする小説の「語り」がそれにもかかわらず詩/詩人を再現する際に立ち向かわざるをえないアポリアを明らかにしたい。