杉野 健太郎 信州大学
第二次大戦後に急速に広まった郊外を舞台にすることが多いので「郊外作家」、主な活躍の舞台にした雑誌から「ニューヨーカー作家」と呼ばれることが多いJohn Cheever(1912-82)。しかし、盟友Saul Bellow、元同僚Raymond Carverはおろか、文学的弟John Updikeとの関係さえ忘れ去られ、今や日本では乱視読者以外の注目を浴びることはほとんどなくなったかに見える。しかし、カノン見直しの論客であるNina Baymが明確に編集総責任者となり序文を書くようになる前も後もアメリカの米文学史の標準的教科書である The Norton Anthology of American Literature からCheeverは一度も外れたことはない。本発表の目的は、彼の最高作とも目されるものの十分に解明されたとは言えない The Swimmer (1964)の意味とともに、その歴史的意義を明らかにすることである。
文化史家W. Susmanの言葉を借りれば「ピューリタンが消えた時にアメリカの生活とコミュニティが失ったものを強調した」作家、付言すれば、白人男性の深刻な精神的揺らぎ、アイデンティティの危機を描いた作家、と言っても過言ではないCheever。確かに、自身ピューリタンの末裔であるものの、Cheeverにとって、ピューリタニズムはアイデンティティを支える「大きな物語」あるいは「使用可能な過去」たりえないだろう。では、何か代わりになるものはあるのだろうか。
男らしさ、若々しさ、豊かさ、幸福で豊かな家庭と隣人。非白人を排除した豊かな戦後アメリカ郊外社会のすべてを持つ白人(イングランド系)中年男性ネディ・メリルは、ある真夏の日曜日に郊外の家々のプールを泳ぎ渡って自宅に帰ることを思いつき、その過程において、それらの肯定的価値どころか時間見当識や記憶やアイデンティティまでをも失い深い幻滅を味わう。Updikeの言葉を借りれば「アメリカのプロテスタント男性に特有の深い憂鬱」が最も深く刻まれたとも言える The Swimmer のあらすじを解釈を交えて短く示せば、こうなるであろう。結局は失敗に終わるが、家まで泳いで帰ることを思いつき実行に移すという、ネディのモックヒロイックな行為の動機を仔細に探れば、ピューリタニズムに代わる何か、すなわち、H. N. SmithやR. Slotkinの言うところのアメリカ最大の神話、アメリカの最もnativeな神話であるフロンティア神話が炙りあがってくる。さらに、初のアイリッシュ・カトリックの大統領JFKを中心とする同時代的コンテクスト、およびCheever自身が深い影響を受けたと告白する半分アイリッシュ・カトリックのF. Scott Fitzgeraldの文学史的コンテクストという一見奇妙に見えるかもしれない参照対象を軸としてこの作品の文学史的・文化史的意義を読み解けば、この作品がある時代の弔鐘となっていることが分かるのである。