1. 全国大会
  2. 第45回 全国大会
  3. <第1日> 10月14日(土)
  4. 第6室(55年館6階 563教室)
  5. 1.モダニズムの南部的瞬間

1.モダニズムの南部的瞬間

越智 博美 一橋大学


南部文学の正典がモダニズムを中心とした男性作家を中心に創られてきたことは指摘されて久しい。こうした南部文学および南部性とその正典は、主に新批評を土台に作られたのだが、そもそも新批評が南部の文化運動にその誕生の歴史的な一端をもちながらも、南部性とは無縁を装ったこと、そしてモダニズムと、それ以降の、それに支えられた冷戦期の文学の正典もまたその新批評の枠組内で形成されたという点について論じられることはほとんどない。

言説として構築される南部は、Nina Silberが南北戦争後から1900年までの分析で示したように、常に北部との関係において、北部によって、また南部によって創られてきたが、その際その「南部」は南北の言説上のせめぎ合いのなかでしばしばジェンダー性を帯びてきた。しかし、これは世紀転換期を大きく越えてさらに1920年代、30年代にまで及んでいるのではないか。モダニスト詩雑誌 Fugitive にかかわり、I’ll Take My Stand (1930)にかかわったDonald Davidson, John Crowe Ransom, Allen Tate, Robert Penn Warrenらが「南部」に目を転じる契機とされたScopes裁判(1925)を中心とする時期、南部の後進性を非難する言説も、逆に南部を擁護する言説も,ともに南部の男性性の有無をめぐる比喩が多用されているのである。

そうした男性性をめぐる言説に応えるかのように、DavidsonやTate、Ransomらが1920年代後半から30年代にかけて発表した詩や小説には父親像が溢れている。北部の英雄John Brownの脱神話化や女々しい南部の男の代表格Jefferson Davisの再男性化が語られ、あるいは人種の優越に基盤を置いた雄々しい父祖像が“Tall Men”として語られる。こうした父親の群れを描く Fugitive詩人=農本主義者=新批評家たちは想像の上で、北部を父としない新たな父、あるいは彼らにとって正しく強い父たちを、ある種のファミリー・ロマンスのようなものとして創出したとも言えるかもしれない。

こうした文脈に新批評を置いたとき、1930年代半ば以降にその力を強めていく新批評が、詩を読む行為を語る言葉は興味深い。端的に言えば、ロマン主義の詩とロマン主義の詩を読む行為を女性的で受け身であるとし、形而上詩やモダニズムの詩そのもの、そしてそれを読むことに男性性を適用するのである。そして、その語彙は彼らが南部文学の正典を語る言葉にも共通する。こうした新批評が政治性を隠蔽しつつ冷戦言説の男性性と手を取り合う瞬間こそ、おそらく新批評のアメリカ化の瞬間であった。本発表は南部的な瞬間としての新批評と、新批評が評価するモダニズムとを、南部言説のジェンダー性を介して連結させて考察する試みである。