西川 和宏 早稲田大学(院)
かつてアメリカ南部の白人社会では、黒人は自殺しないと多くの者が信じていた。例えば、William Faulkner, “That Evening Sun” (1931)において、白人たちは“no nigger would try to commit suicide unless he was full of cocaine”と噂する。誰よりも自殺することの困難に直面する黒人は、Go Down, Moses (1942)においてクリスマスの日に入水自殺する奴隷のEuniceだろう。彼女もまた“Who in hell ever heard of a niger drownding him self”と言われ、自殺したことを疑われる。結局彼女の死はAmodeus McCaslinによる推測と、Isaac McCaslinの想像の中で初めて自殺と認められる。彼女は人間としての生を奪われるばかりか、自らの意思で死ぬ能力さえ否定され、白人の解釈者を待たねば自殺という行為を完遂することもできないのである。
また、Euniceがクリスマスの日に自殺しているという点も問題にすべきだろう。彼女はキリスト降誕祭に死ぬことで宗教的救済を願ったのだろうか。しかし、黒人奴隷の自殺について調査したWilliam D. Piersen によれば、南部のキリスト教各派は、自殺は罪であり、自殺すれば天国に行けないと奴隷に教えていた。そのためもあって、実際に黒人奴隷の自殺率は白人に比べて低かったとも考えられているのである。それでも奴隷がキリスト降誕祭を選んで自殺したのならば、それはむしろ、絶望のあまりキリストによる救済さえ拒否した死だったということではないか。
Euniceについては、所有物として台帳に記録されたわずかな記述とIsaacによる想像しかないため、彼女をひとりの生きた人間として論じるのは非常に難しい。そこでテクストには書かれていないEuniceの心理まで想像し、彼女の悲嘆や娘を守れなかった罪意識、自分自身に対する怒りなどを推測するThadious M. Davisの試みもあるが、本発表では同じ Go Down, Moses の別の黒人登場人物である“Pantaloon in Black”のRiderと合わせて論じることにより、Euniceの自殺の特殊性を浮き彫りにしたい。Euniceの死が語られる“The Bear”第四章に先立って、Riderは神に対する不信の言葉を口にし、Richard Godden, Noel Polkが“a perverse suicide”と言っているように、白人を殺すことで自らの死を招く。本発表では、生きた時代も性も違う二人の黒人登場人物の死を比較することにより、白人社会の中で、彼らの宗教的な苦悩と特異な自殺の形態がどのように結びついているかについて考察する。