深瀬有希子 東京理科大学
Toni Morrisonの Jazz (1992)の語り手は、人種・ジェンダーが曖昧であるのみならず、自身の語りの信憑性をメタフィクショナルに省みるものとしてしばしば論じられてきた。例えば、語り手を黒人女性と見なす論考は、彼女が白人としてパッシングする混血児Golden Grayを批判する様子に、語り手の人種・ジェンダーがもたらす「限界」を見る。あるいは他の読解では、語り手に決定不能という性質が与えられる場合もあれば、語り手は本それ自体であったり、音楽と考えられたりもする。本発表では、このように様々に解釈される語り手に新たなアイデンティティを断定するよりもむしろ、語りにおける客観性の欠如への反省が本小説の舞台である1920年代ニューヨークを描く際の一形式になっているのではないか、という点を論じてみたい。
そこでまず始めに、語り手が元奴隷の黒人女性True Belleの人生を語る様子を取りあげる。小説冒頭で、語り手はハーレムのことなら何でも知っていると豪語する。のちにこの語り手が己の過信や抑制の欠如を嘆く点は、たびたび指摘されてきた。しかし、混血児Golden Grayを育てたTrue Belleを語るとなると、語り手が 「おそらく」という言葉を繰り返し、他の場面で見せた大胆さを示さずにいる点については詳しく議論されていない。ハーレムの物語の中にTrue Belleの奴隷体験記を組み込むときに生じるこのような語り口の変化は、本小説が黒人奴隷体験記の一形式を踏まえながら、1920年代の北部都市で南部奴隷制について語る意義を示していると考えられるだろう。
次に注目するのは、Jazz の語り手がハーレムの住民をいかに捉えているかという点である。その際、本小説が描く時代・場所でまさに出版されたF. Scott Fitzgeraldの The Great Gatsby (1925)を参照する。登場人物でもあるNickの語り方や、彼が語らない人種民族的他者を考慮に入れることにより、Morrisonの描くニューヨークが、その語り手によって“amiable strangers”と呼ばれる住民がひしめく、Ann Douglasの言葉を借りれば、“mongrel”な場として浮かび上がってくるのではないか。あるいは、Morrisonの語り手が異なる声を聞きとる様子は、Werner Sollors の言う “ethnic modernism”の描出として見なすことができるのではないだろうか。