山本 祐子 神戸女子大学(非常勤)
Adventures of Huckleberry Finn (以後 Huck Finn と省略) において、Huck とJim はそれぞれ異なる「自由」を求めて旅を続けていると言われてきた。Leo Marx 以来、Huckは「社会的な制約からの自由」や「文明からの精神的な自由」を求めて旅していると議論されてきた。そしてHuckの「自由」と明確に区別され、Jimは「奴隷制からの肉体的な自由」を求めていたことが強調されてきたのである。つまり白人少年のHuckと逃亡奴隷のJimでは、そもそも逃亡を続ける動機も目的も違うというのがMark Twain批評における一致した見解である。しかし半世紀以上にわたって引き継がれてきたこの見解を、見直す時期に来ていると本論では考える。
HuckはなぜJimと旅を共にすることとなったのか、その動機付けはあいまいで、納得いく議論もなされてこなかった。確かにHuckがJimとの旅を通して人間的な繋がりを深め、その果てにJimを救おうと苦渋の決断をするくだりには説得力がある。しかしJackson’s IslandでHuckとJimが再会したとき、彼らはさしたるためらいもないまま共に暮らし始めるのはいかにも不自然である。なぜならSt. Petersburgの村人たちの多くが懸賞金を目当てにJimを追っていたのである。このJimと行動を共にすれば、Huckもまた村人たちに発見される危険が増す。Huckのようにひどく臆病で用心深い少年が、こうした危険に気付かないはずはない。そして白人達に裏切られ続けてきたJimが白人であるHuckを最初から信頼していたとも考えにくい。むしろHuckとJimが共に隠れ暮らすこととしたのは、彼らには当初から共通の利害があったからだと考えるべきだ。
KingとDukeがそうであったように、HuckとJimはそれぞれが法に反して追われる身であったがために、協力する他なかったのである。本稿ではとくに、Huckは社会的にはJimと極めて類似した立場にあって、そこからJimと同じように不法に逃げてきていた事実をつまびらかにしていきたい。これによってHuckとJimはいずれも法的・社会的制裁から逃れ、罪を免れるために、共謀して逃亡を続けていたことが分かるはずだ。
そしてHuckとJimは二人とも罪を免れようとする違法な逃亡者であったからこそ、自らの社会的な罪悪を絶えず意識させられ、贖いを強いられていたともいえる。たとえば、Huckは最後まで罪悪感から解放されず、Jimは最終的に逃亡奴隷として収監され制裁を受ける。罪悪とその贖いが、HuckとJimの旅に隠された共通の意図でもあったとし、作品を再考したい。