西田 智子 九州産業大学
Kate ChopinのThe Awakening (1899)において、物語のヒロインであるEdna Pontellierは、二人の子供の母としての役割を担い、クレオールの夫に完全に庇護された生活を送る主婦として登場する。彼女の人生は、偶然による結婚や、たびたび訪れる“Fate”によって操られ決定されてきた。また、彼女が出産を経て母となり家庭生活の中に埋没することも、逆に家庭や社会が求める役割や閉鎖的な環境から解放されて一人の女性として欲望のままに自由に生きたいと願うことも、人間の力を超えた“Nature”の力によるものとされる。この場合の“Nature”とは、自然の風景というよりは、理性によって制御することが不可能な、人間の宿命的な本能や感情を表すと考えられる。“Nature”は擬人化され、人間の意思に反してその人生に影響を及ぼす存在として表現されるのである。“Nature”に左右されるEdnaは、弱く自己中心的な印象を備えることになり、例えばC. L. DeyoはEdnaを、“weakly, passively, vainly, offended”といった言葉で批評している。Ednaは確かに気分に流され抑鬱状態に陥りやすく、彼女が求める生き方もあいまいに表現される場合が多い。しかし物語の中でEdnaを理解しようとするDoctor Mandeletが強調するのは、彼女のような人間の弱さではなく、むしろ人間の幸、不幸におかまいなく、その人生に不可避的な影響を与える“Nature”という要素の残酷さである。そこで本発表では人間の理性を凌いでその人生を左右するという、この作品における“Nature”の意味について論じてみたい。
自分の本能的な欲求に目覚めつつあるEdnaは、Emersonの著作を読む。Ralph Waldo Emersonの実際の作品の一つであるNature (1836)においては、人間が学ぶべき教訓を無限に内包する自然の偉大さが描かれる。Emersonが表現するNatureとは、人間の本能というよりは森羅万象の世界そのものと考えられるが、EdnaはまさにGrand Isleの自然の中で、彼女の五感を通して自分にとって“essential”な生き方と人生の指針を感受していると考えられるのである。そこでEmersonの自然論と比較することで、Ednaの感性を刺激する、この物語に描かれる風景の意味も引き立つのである。
“Nature”に導かれ、内在的な本能と外在的な自然から、Ednaが五感を通して感受したことは、社会的存在ではない自我と、人間の本質としての孤独の意味である。Emersonは、人間が孤独になって自然と対峙することで自然が与えてくれる啓示を感受できると考えるが、Ednaは社会的存在としての自己の装いを脱ぎ捨て、自然そのもの(海)の中に同化していくことで、人間にとって“essential”な孤独の尊厳を守ろうとする。また、理論や理屈ではなく、五感による経験を通して刺激されたEdnaの感性こそが彼女に人間の本質の意味を教えているという現実は、まだ自立や自由な生き方の追求といった問題に対して自らの意見を語るすべや社会通念を備えていなかった当時のアメリカ社会における家庭の女性たちの状況を象徴すると考えられる点についても検証していきたい。