竹内 勝徳 鹿児島大学
無垢な人物が殺人を犯すという点で、HawthorneのThe Marble Faun (1860)とMelvilleのBilly Budd (1924)は共通している。類似点はそれに留まらず細部に、多岐に及んでいる。例えば、Donatelloの無邪気な姿は「人間が罪の重みを背負う以前」のものと形容され、その従順な姿は何度となく “hound”に譬えられる。Billyの無垢な精神も「垢抜けた蛇が身を捩って近づく以前のアダム」に比され、周囲の出来事に対する受身な姿勢が「犬のよう」であるとされている。Donatelloが修道士Antonioを突き落とすシーンを目撃したHildaは、その様子を “It was like a flash of lightning”と回想するが、BillyがRed Whiskersを殴る瞬間は”Quick as lightning”と描写されている。等々。しかし、二人の運命は大きく分かれる。あたかも、Billy Budd にはThe Marble Faun の残響音が残っており、MelvilleはHawthorneの亡霊を創造的に再構成する形で遺作を書き上げたかのようである。
両作品の相関関係を捉えるには、そこに行き着くまでに二人の作家が遂げた思想的変化を点検する必要がある。最近の研究では、例えば、Ralph Waldo Emersonも当初のアプリオリなカント的現象観から脱却し、現実の生活と高い理想との間にみられる対立故の、個別の事象から普遍的真実へ至る「動的」な発展のあり方を見出したとされている。ThoreauやWhitmanにもこれに類する変化がみられる。1850年の妥協案から南北戦争にかけての歴史的転換の中で、アメリカン・ルネッサンス作家の想像力は、静から動へ、調和から対立へ、アプリオリなものから発展的なものへと変容していったと言える。これは、ヴィクトリア朝の進歩史観やダーウィニズム、さらには、革命が頻発するヨーロッパにおいて、思想界がKantからHegel、Marxへと推移した流れにと並置されるものである。HawthorneとMelvilleもこの潮流から大きく外れるものではない。
例えば、Melvilleの場合、Mardi (1849)では魂の浮遊が容易に行なわれていたが、Moby-Dick (1851)では魂と身体が激しく対立し、その対立が逆にAhabの探求を推し進めていく。Billy Budd では、まさに調和的な魂が身体運動としてスムーズに表れないために「どもり」が発生した。Hawthorneにあっても、当初、人間の罪悪はアプリオリなものとみなされていたが、The Marble Faun においてMiriamは罪とは「ありがたい教育」ではないかと問う。Hawthorneは、アプリオリな自然的要素を人知によって発展させることで、罪を教育に変えることができると考えたのではないか。この認識の変化はThe Marble Faun の前に書かれた子供向け著作と無縁ではないだろう。また、Hawthorneの義理の姉Elizabeth Peabodyはアメリカにおけるフレーベル教育の推進者であり、その影響も少なからずあったはずだ。教育はDonatelloを救うが、Billyは法の前でどもり、死刑を宣告される。本発表では、こうした19世紀中葉の思想的変化の中に二つの作品を位置づけることで、その共通点と相違点を説明する。