浜松学院大学 川口 雅也
プロデューサーや脚本家の発言を聞く限りでは、Star Trek: Voyagerの一エピソード“Jetrel”(1995)はHiroshimaの隠喩ではあるものの、それが描こうとしたのは、加害者・被害者の区別なく戦争に関わったものが抱える心の傷と、そこから再生に向かう者たちの姿ではないかと思える。しかし、単独の作者の意図がそのまま反映される小説とは異なり、テレビ・ドラマにおいては、先にあげた制作者たちだけでなく、さらに多くの作り手たちの意図が混在しており、作品としての意図を明確に把握するのは容易なことではない。
活字媒体の狭義の文学においては、作中人物は作家という作り手の操り人形にすぎないが、テレビ・ドラマという映像媒体の文学における作中人物は、制作総指揮のプロデューサーの意図を反映するだけの存在にとどまらず、俳優が役作りの過程で作中人物に見出すことになる意思がそこに加わる。また、同じ映像媒体である映画とも異なり、連続したエピソードから成るテレビ・シリーズにおいては、演出をする監督以上に、レギュラーの俳優の意図が尊重され、プロデューサーも脚本家たちも、俳優の特性を活かして、そこから作中人物の性格を形成していこうとする傾向が見られる。“Jetrel”においても、複数の作り手たちの中での俳優の役割は大きく、演技によって意思をもつようになった作中人物は、作品の意図を形成する大きな要因となるのである。
“Jetrel”の結末で、大量殺戮兵器を発明・開発したDr. Jetrelを、その兵器によって家族・同胞を失ったNeelixは赦す。そのことでDr. Jetrelは罪悪感から解放され、Neelixもまた同胞を見殺しにしてしまったという罪悪感から解放される。しかし、それをそのまま作品の意図とみなすのは安易すぎる。それは脚本の範疇での作品理解でしかない。主人公Neelixが、俳優Ethan Phillipsによってどのように演じられているかを注意深く見て初めて、作品の意図を見出すことに至る。
媒体が何であれ、文学は「何」が語られるかということと並んで、それが「どのように」語られるかということが重要であることは言うまでもない。テレビ・ドラマにおいて「何」の基盤となるのが脚本であり、「どのように」の仕上げとなるのが演技である。その点において、主人公Neelixを演じる俳優Phillipsの演技が物語のトーンを決定づける。それゆえに、広島・長崎の惨劇を知る日本の視聴者にとって最も印象に残るのは、“Jetrel”がNeelixをつうじて被害者の視点からHiroshimaを語っているということである。
本発表においては、俳優Phillipsが“Jetrel”に込めた思いを重視し、彼と発表者との間で交わされたメールで語られた彼自身の言葉を主たる根拠に、脚本に書かれたト書き、および台詞が、彼によってどのように解釈され、演じられているかということに注意を払うことで、複数の作り手たちから成るテレビ・ドラマの中にあって、作り手の一部である俳優の演技が物語のトーンを決定づけ、その結果として“Jetrel”が原爆の犠牲者の視点からHiroshimaを語る作品になっているということを明らかにしたい。