慶應義塾大学(非常勤) 山根 亮一
民族や国境を超えて、物語は反響する。Henry Wadsworth Longfellowは、1755年のアカディアン強制追放をめぐって起きた若い男女の悲劇を、長編の無韻六脚詩として1847年に発表した。「エヴァンジェリン」(“Evangeline”)というアカディアン女性の名を冠したその作品は、フランス語に翻訳されながら、大西洋周辺地域に散らばったこの悲劇の犠牲者達、つまり、英領ノヴァスコシアから北米のイギリス植民地、仏領ギアナ、フォークランド諸島、カリブ海の島々など様々な場所へ追放されたアカディアン達自身の間でも広く親しまれた。大西洋のディアスポラとなったこの民族は、その後、自己言及的なアイデンティティー構築を模索し、1907年にはルイジアナ州の判事Felix Voorhiesが、小冊Acadian Reminiscence: The True Story of Evangelineを書いて、アカディアンの物語をニューイングランド詩人の想像力から取り戻している。そして1931年にエヴァンジェリンの名は再び別の作家の手に渡るのだが、このときアカディアンの悲劇は、LongfellowやVoorhiesのものとは明確に異なる民族性を帯びることになる。後にAbsalom, Absalom! (1936)へと発展するWilliam Faulknerの短編、“Evangeline” (1979年に死後出版)では、実はエヴァンジェリンという登場人物はいない。だが、このタイトルを据えることで、Faulknerは強制追放で破綻した若きアカディアン夫婦の結婚の物語を、ジム・クロウ法時代のアメリカ南部における異人種間結婚をめぐる悲劇へと重ねているのである。別々の主体位置に状況付けられた語り手達を繋げ、アメリカ建国以前のカナダから大恐慌時代のアメリカ南部まで反響するエヴァンジェリンの物語は、国際化する今日のアメリカ文学の領域において何を語り得るのだろうか。
エヴァンジェリンという固有名をめぐる作品群を通じて、本発表はアカディアからルイジアナを経てミシシッピにまで至る民族主義の系譜学を読み解きながら、グローバル・ステイトにおける帰属と連帯の両義性について考察する。この企図にとって重要な参照枠となるのは、Judith ButlerとGayatri Spivakの対談、Who Sings the Nation-State?: Language, Politics, Belonging (2007)である。とりわけ、2006年のカリフォルニア州で起きたアメリカ不法滞在者の街頭デモ、つまり、アメリカ国歌をスペイン語で歌うことによる対抗ナショナリズム的パフォーマティブについての論考は、本発表にとって興味深い。ここでは国歌と国家を接続することで、グローバリゼーションの流れに晒された国民国家(nation-state)の混乱した状態(state)が巧みに指摘されている。しかしながら、この二人の議論は国歌/国家について思索しながらも、主に言語的な帰属意識の表象、換言すれば、2011年にJoshua L. Millerが同じ街頭デモの国歌/国家の翻訳に言及して定義した様な、様々な異文化が交渉し混淆し合う場としての言語政治(language politics)の枠内から逸脱しない。その一方で、前掲したエヴァンジェリンの物語は、共通して歌詞の無い音楽を各々のノスタルジアに添え、想像の共同体を幻視させる。それらの書かれた音楽、つまり文学作品における非言語的表象の諸相を比較することで、言語政治に付随する民族主義的な帰属意識を再考し、様々な時空におけるデラシネ的主体の連帯の可能性を探ることが、本発表の最終目標である。