比治山大学(院) 坂本 愛
ユーモリストとして名高いMark Twainだが、晩年はペシミズムに陥り、晩作では悲観的な人間観を描いたとされている。本研究は、この定説に異を唱え、晩作におけるTwainの人間観に対する新たな解釈の可能性を示そうとするものである。
第一章では、後期Twain作品が悲観的であるとの見方をされてきた一因と考えられるWhat Is Man? のMan-Machineに着目し、Man-Machineとはどのような概念か、また、Man-Machineに備わっている「内なる君主」とはどのような働きを持つのかを明らかにすることを目的とする。
始めに、Man-Machineの持つ「内なる君主」の性質を明らかにし、その根幹には「内なる君主」の自己改革という働きがあることを論証したい。また、その働きかけを促す方法を、「内なる君主」の教育に焦点をあて、作中から例を引きながら考察する。さらに、「内なる君主」を図示することで、その構造を明確にしたい。本章の結論として、「内なる君主」の性質なるものに、自己の理想に向かって内発的運動を展開する自己改革の働きがあることを論じる。
第二章では、Mark Twainの哲学の具象化と言われているNo. 44, The Mysterious Strangerを題材に、本作でMan-Machineがどのように扱われているかについて、「内なる君主」の働きを示していると考えられる登場人物について論じることで究明し、さらに「内なる君主」の本質に迫る。
始めに、登場人物である44号とアウグストそれぞれの「内なる君主」の構造を、第一章で用いた、「内なる君主」の構造を図示したものを応用して明確にする。次に、物語の最初は、機械的な働きしかもたなかったアウグストの「内なる君主」が、人間関係の変化となる44号との関わりから、どのように影響を受けて変化を遂げたか、その変遷の経路を初期段階から最終段階までの3段階に分けて見ていき、最終的にアウグストの良心の目覚めまで論及する。最後に、Twainの導き出したMan-Machineがどのようなメッセージ性をもっているのかを検討し、Man-Machineとは、ただ人間の弱点を指摘することを目的とするのではなく、その結果路頭に迷う人間の心の救済と変革を目的としたものであることを明らかにしたい。
以上の論考から、晩年のTwainに対するこれまでの批評家の一般的な評価とは異なるTwain像が導き出されると考えられる。Twainの人間観には、ペシミスティックな「人間機械論」ではなく、人間の価値を追求し高めていくオプティミスティックなMan-Machineという考えが内在するという新しい解釈を展開したい。