同志社大学(非常勤) 別所 隆弘
本発表は、Mark Twainの自伝的旅行記であるLife on the Mississippiを、ダークツーリズムの視点から読み解く試みである。1990年代後半以後、人類の負の遺産を巡る旅がダークツーリズムという用語で表現されるようになった。ただ、この概念が用語として規定される以前にも、旅におけるダークツーリズム的要素は、旅行記を始めとする旅をめぐる言説の中には見出すことが出来る。というのも、このダークツーリズムという概念は、失われつつある記憶に対する哀悼の念とその継承を目的とする旅を指すのだが、そうした一種の教養的側面は元来旅行という行為に本来的に備わっているものだからだ。ただ通常の旅やツアー以上に、ダークツーリズムにおいては失われたものを想起しようとする「記憶」における努力と、その記憶を文字や映像などのメディアを通じて「記録」として残そうとする意志が強い。このような性質から鑑みてダークツーリズムは本質的に文学作品に馴染み易い概念と言えるだろう。そして、「記憶」と「記録」の間で揺れ動きつつ、自らの過去を現在と接続しうるナラティブとして再編しなおそうとするTwainの試みもまた、その「記憶」と「記録」への拘泥ゆえに、ダークツーリズムという概念を適用して解釈され得る可能性を有している。
解釈にあたって、本作品の構造的な特質にまず着目したい。周知の通り、この作品は執筆期間が長いために前半と後半では扱っている時代や社会状況、またTwain自身の年齢や立場に大きな変化がある。このような大きな違いがある以上、別々の作品として分けた方が瑕疵は少なかったはずであるにも関わらず、殆ど強引とも思えるやり方で一つの作品に仕立て上げられている。しかし、作品を一つの物として仕上げようというこの動機の核心にあるものこそが、ダークツーリズムと共鳴する要素、すなわち記憶の風化に対する抵抗と、記録に対する意志として見いだすことが出来る。作品はむしろ、時間的/文化的に断裂した空隙を意図的に含み込み、その裂け目が決定的な欠落となる前に繕うという手続きをとることで、一つの継続した歴史として紡がれる。一方そうした手続きには必然的に事実を改竄し、自らが望む形での「歴史」を作り出すという、フィクショナルな手続きを必要とするだろう。 Twainが自らの表象で欠落した歴史を 上書きしようとする時、そこにはその表象を消費する読者との共謀関係を見出すことが出来る。仮に虚構が介在したとしても、共有できる物語として歴史は語られ、そして読まれる必要があるのだ。この時、Twainにおける「記憶」と「記録」にまつわる問題系は、失われつつあるものを表象し、継承する行為としてのダークツーリズムに必然的に近づく。
本発表では、ダークツーリズムという用語の概説と、その文学的適用の範囲を定めた上で、この概念を適用してLife on the Mississippiを読み解き、 Twainの本作における文学的な達成がいかなる意味を持っているのかを考察したい。