福島大学(非常勤) 渡邊 真由美
Stephen CraneのMaggie: A Girl of the Streets (1893、以下、Maggieと記す)は、アメリカ自然主義小説の先駆的作品として注目されてきた。たしかにCraneは10代の頃からニューヨークのバワリー街をはじめとする貧民街を観察し、貧しい人々の生活のなかに“real life”を見出し、それを写実的に表現した。しかし同時に、彼は文学に演劇的効果を求める芸術家であった。本発表では、大衆演劇が主人公の想像力をかたちづくる点、そして彼女の運命が大衆演劇の世界を裏返して現実の世界のリアリティを効果的に打ち出すのに機能している点を考察したい。
19世紀末は、労働者階級やミドルクラスの娯楽への欲求を背景に、大衆演芸がたいへん栄えた時代であった。Craneはそういう演芸に積極的関心をもち、自ら戯曲を手掛ける一方、“Some Hints for Play-Makers” (1893)と題する戯文などで、メロドラマの流行を痛烈に批判もしている。Craneは作品Maggieのなかに舞台の要素—とりわけ、メロドラマの設定やプロット—を大幅に取り込みながら、主人公の舞台との関わり方を通して舞台とは逆の“real life”を描こうとするのである。
貧しい家庭に育ちながらも純真な主人公Maggieは、兄の友人Peteに劇場やサルーン(酒場劇場)に頻繁に誘われる。そういう場所で演じられているメロドラマの多くは、無垢な少女が善良な救済者によって貧しい生活から救われ、幸せを手にする。Maggieは自然、自分をそのようなメロドラマのヒロインに重ねて、Peteを救済の騎士と信じるが、すぐさま裏切られ、捨てられる。
このようにプロットはメロドラマの結末を逆転させているにすぎない。しかし、舞台やそれを見て沸き立つ移民労働者たちの描写などは、非常に写実的で、生き生きしており、Jacob Riisらが作り上げた貧困にあえぐ労働者階級のイメージを壊していて、Craneの観察が生かされている。他方、メロドラマの典型的ヒロイン像を与えられたMaggieは、始めのうちは観客として舞台を見ているが、次第に自分が見られる存在になっていることを意識するようになる。と同時に、彼女は名前を呼ばれることがなくなり、題名通り「ある女」になっていく。つまり、日常性を超えて、普遍化した女になっていくのである。
Maggieは、メロドラマの枠組みを利用しながらも、メロドラマ的世界観を覆して見せる。劇場の場面を通して自分の感情を語ることのほとんどないヒロインの心理状態をドラマティックに浮き出させたり、作品の最後では、ヒロインの転落を、彼女自身が歩く通りやすれ違う男性たちによって印象主義的に表現したりしている。こうして、作品Maggieは、メロドラマを見るMaggieからメロドラマのヒロインになるMaggieへと漂わせながら、“real life”の内面までも描き出そうとする。伝統的ロマンスの手法にも自然主義的手法にも収まらない、Crane独自の文学世界を創りだしているように思われる。