1. 4.戦場としての自然―Melvilleの Battle-Pieces

4.戦場としての自然―Melvilleの Battle-Pieces

高尾 直知 中央大学


Herman Melvilleの詩作については、最晩年の Clarel (1876)以外には、あまり多く取りあげられてこなかったが、たとえばLawrence Buellがいうように、Melvilleの詩作は、彼の作家活動の「論理的帰結」として生まれてきたものであり(“Melville the Poet,” The Cambridge Companion to Herman Melville, ed. Robert S. Levine, New York: Cambridge, 1998, p. 135)、Melvilleを語る上で、これから取りあげていかなければならない分野であることは間違いない。なかでも Battle-Pieces and Aspects of War (1866)は、国家を揺るがせた南北戦争というできごとに対するMelvilleの姿勢を考察する上で、最重要の作品である。奴隷制や人種差別の問題、帝国主義的な国家イデオロギーの問題について、さまざまな形でひとの思考の問題を探ろうとし、ひいては散文作品においてはそれを達成することができなかったために、詩作へと向かったとするなら、この作品がMelvilleのヴィジョンを明らかにする上でいかに重要であるかは想像に難くない。

しかし、作品に一歩踏みこむと、そこには、自然と宗教と政治が渾然一体となって展開する濃密な時間が流れていて、読むものを困惑させる。暗雲は来るべき戦乱の予兆であり、激流は不可避的に惨劇に向かう政治状況、嵐は国家を飲みこむ争い、そして人民は暴風雨にもてあそばれる一片の木っ端いかだにすぎない。そのような戦争描写によって、Melvilleは次々と激戦地を歌い上げていく。マナサス、スプリングフィールド、ボールズ・ブラフ、ポートロイヤル、ドネルソン、シャイロ、ミッシッピ河畔、アンティータム、ストーン・リヴァー、ヴィックスバーグなどなど。そこで明らかにされていくのは、アメリカの自然が、いかに宗教的・政治的なイデオロギーによってすでに彩られているかということであり、各地の戦闘をこのようにして歌い上げていくことで、Melvilleはアメリカのジオポリティカルな制度が次々と崩れていくさまを描いているのだといえる。

もしくはこのようにいってもいいかもしれない。Melvilleの詩においては、自然を歌うことと、政治を歌うこととは、等価値である。Melvilleは、自然を叙情的に描写するような韻文で、政治を、戦闘を歌っている。アメリカという国家そのものが、民主主義や共和制といった高邁な理論を掲げているにもかかわらず、実際は常に「新天地」であり「新たなエデン」であるという地理的性質によって成立している。ヨーロッパから隔絶した場所であったがゆえに「独立」が可能になったのであり、かつ、黒人奴隷制をここまで長きにわたって保ち得た。そしてヨーロッパから隔絶していたがゆえに、比較的外的干渉を無視して、徹底的に内戦を戦い得た。

アメリカにとって、自然とは、(戦争も含めた)人間の政治や文化によって規定されるものではない。むしろ、人間の政治文化、そしてひとつひとつの戦乱もが、すべてアメリカという自然によって規定されている。その意味で、アメリカ合衆国の内戦とは、実は人間のおこなう主体的な営為ではなく、自然という運命(もしくは神)によって操られて、おこなわされているにすぎないことなのではないか。自然という戦場があるからこそ、人は戦うのではないか。Melvilleが「補遺」において、南部再建に対する寛容を願うのも、実はこのような運命としての自然に操られたひとの悲劇を知るからにほかならないのだろう。