1. 第10室(55年館7階 574教室)

第10室(55年館7階 574教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
古賀 哲男

1.Mary Oliverの「流動詩」

  東 雄一郎 : 駒澤大学

2.9.11がNaomi Shihab Nyeに与えた声

  小泉 純一 : 日本福祉大学

長田 光展

3.2つの時間と閉ざされた空間からの告発― Arthur Millerの I Can't Remember Anything

  森 瑞樹 : 大阪外国語大学(院)

4.1940年代喜劇の中の「異常者」 たち― Arsenic and Old Lace と Harvey における笑いの分析

  黒田 絵美子 : 中央大学



東 雄一郎 駒澤大学


American Primitive (1983)でピュリッツァー賞を受けたMary Oliver(1935-)は、オハイオ州メイプルハイツの豊かな自然の中に生まれ育った。彼女は現代一流の自然詩人である。「私はもう一度完全な野生に戻りたい」(“One Meeting”)。「死が訪れたら、私は言いたい、一生涯/私は驚きと結ばれた花嫁であった/その世界をこの両腕の中へ招き入れる花婿であったと」(“When Death Comes”)。このように彼女は、「象徴的イメジャリーの巨大な宝庫」( A Poetry Handbook )である自然への恍惚的な愛情を率直に表明する。自然の躍動、驚異、美、獰猛さ、恐怖、安らぎなどを詩に歌う彼女にとって、「自然は精神の象徴なのである」(EmersonのNature )。Long Life: Essays and Other Writings (2004)で「再三私たちは、蝶の中に超絶の観念を見る(中略)絶え間なく還流する水に私たちは永遠を経験する」と陳述するOliverは、自然界の新奇で不可視的なものを直感し、それを顕現的な表象へと変容させる超絶主義的な詩人でもある。Blue Pastures (1995)に語っているが、彼女の精神の最愛の兄は、幻視的な逍遥詩人Whitmanである。彼女の多くの詩は、写真家Molly Malone Cook(2005年8月死去)と共に永く暮らしたプロヴィンスタウン周辺の毎日の散歩から創作された。詩人Maxine Kumin (1925-)は、小湖ウォールデンの自然観察と思索の生活者Thoreauと結びつけ、Oliverを「湿地の巡察者」と呼んでいる。

Oliverは、感情喚起的で精緻なイメジャリーと簡明な言葉を駆使し、自由詩と定型詩を連携させる。The Rules for the Dance (1998)で「詩はことごとく音楽である」と言明しているが、彼女にとっての詩は、「韻律的な歓喜」を付与する「音楽」である。彼女はこの自分の詩を「流動詩」(または「有機詩」)と呼んでいる。深い内面経験を解明する彼女の「流動詩」は、BlyやJames Wrightのdeep imageの瞑想的な技法を踏襲している(その先駆者はEmily Dickinson)。彼女の「流動詩」は、より自由で普遍的な「野生」の法則を読者の周囲と内面に確立させ、現実の自然界には存在しない「真四角の卵」や「新色の花」などの想像的な記憶を提供する。この非存在の夢幻的な創造願望は、現代の抒情的な自然詩が、その源泉である自然界(「象徴的なイメジャリーの巨大な宝庫」)との幸福な共生を経験できない、という現実の悲劇に由来している。彼女の詩の孤独な話者は、移ろいやすい自己の流動性を認識し、不動の存在(例えば大地や石や沼地の泥など)との無意識的な合一に憧れている。


小泉 純一 日本福祉大学


将来21世紀前半のアメリカとその文学状況を振り返る際、9.11を含め、その中東戦略を抜きにして語ることはできないのではないだろうか。イラク攻撃開始直前には、アメリカ政府の政策に反対する作家の抗議行動や署名活動が活発化し、アラブ系アメリカ人作家に関する記事も新聞の紙面をにぎわせていた。作家たちの政治的発言に光が当てられた点では、ベトナム戦争以来のことだった。その中でも9.11の直後にパレスチナ系アメリカ人の詩人Naomi Shihab Nyeが発表し、ネットでも公開した書簡 “To Any Would-Be Terrorists” はこの作家の誠実さを示し、その考えや作家活動には今後のアメリカ詩の動向を見据える上で、注目すべき点が多いと私には思える。この書簡は、テロを肯定する同胞に対し同じパレスチナ人の立場から表明された反論なのだが、パレスチナ人以外の人々にテロに反対するパレスチナ人がいることを示すものでもあった。

アラブ系アメリカ人といっても一様ではない。Edward W. Saidのようにパレスチナに生まれアメリカに移住した者もいるが、Nyeの場合、父はパレスチナからの移民、母親はアメリカ人であり、生まれてから子ども時代をすごしたのはアメリカだから、文化や意識の面ではアメリカ人と変わらない。自分がパレスチナ人であることをNyeに自覚させたものは、十代の半ばにパレスチナに家族で移住し、そこで祖母の親族と出あった事が大きかった。特に祖母の体に染み込んだパレスチナ女性の文化や価値観は、生まれ育ったアメリカの価値観とバランスを取るものとなった。

9.11以前から、Nyeの作品にはパレスチナの影響や要素が見られたが、この事件は彼女の作品に質的な変化をもたらした。この前後の作品を比べると、詩の声という点でそれまでには見られなかった強さや自信のようなものが感じられる。本人の発言によれば、数年前に亡くなった祖母の声が夢で聞こえてきて、パレスチナの女性の立場から発言することの必要性を教えてくれたという。これを契機にNyeは祖母の価値観と自分のそれを一つにし、パレスチナ女性の共同体意識を今まで以上に持ち、その結果得た詩の声を“To Any Would-Be Terrorists”や詩集 You & Your (2005)に見られるその後の作品に読者は聞きとることができる、と考えていいのではないか。

上で述べたように、Nyeにとっての9.11の意味をパレスチナの祖母との関係で考察すると同時に、それが詩の語りの声にどのように影響を与えたのかを、その前後の作品の分析を通して明らかにし、これからのアメリカ詩の方向性を探るものである。


森 瑞樹 大阪外国語大学(院)


激動の20世紀を生き、個人と社会の関係性を描き出し、自らの良心のもとに社会を見つめ直した劇作家Arthur Millerは、彼にとって不作の時期とも言われる1980年代に、I Can’t Remember Anything (1987) (以下ICRAと略記)という、これまでとは異質な戯曲を産み出す。この作品は男女2人の老人の対話のみからなる一幕劇で、舞台はリビングルームに限定され空間的移動も存在しない。しかし、この作品を、閉塞的舞台空間という要素によってMiller劇の異端として位置付けをおこなうのには問題がある。

ICRA において、Millerは個人と社会の関係性というテーマと“Time”、“Real”、“Illusion”という新たなテーマとの融和を図り、現代社会の時のパラダイムを舞台に浮上させる。これらを考察するにあたり、作中に登場する新聞というメディアに着目する。メディアとは、言説の主体として恣意的に価値体系を固定化し、現実世界というコンテクストから記憶を表象する事象を断片的に切り離し再編する。この断片化は、記憶という時間性に一定のフレームを与えることで、記憶を空間化する。空間性を持った記憶はコラージュ的に相互結合した記憶世界へと再構築される。しかし、ドグマティックなイマージュの主観的な確認の連続からなる記憶は、ドゥルーズの言う「相互主観性」が機能しなくなった際に崩壊を迎える。ICRA に登場する老婦の記憶喪失はまさに、相互主観性を無効化し、記憶の空間的な結合を解くエージェントに姿を変える。

本発表においては、コラージュ的に結合した時間性とそれを無効化する時間性という2つの時間性を考察するとともに、閉ざされた空間として提示される舞台へ、相反する2つの時間性のせめぎ合いを舞台化する演劇性に着目する。また、この2つの時間性の対立により前景化する、現実とシミュラークルの境界の喪失、アイデンティティの揺らぎを見せる現代性について論じる。さらには ICRA が、メディアに対する個人の無防備な受動性、社会に対する無関心を告発する作品としての読みを試みる。


黒田 絵美子 中央大学


アメリカのコメディーの代表作として世界各地で今もなお繰り返し上演されている Arsenic and Old Lace (Joseph Kesselring 1941) と Harvey (Mary Chase 1943)は、精神異常の家族を療養所に収容することが、芝居の展開上、中心的な要素となっている。これらの作品における「精神異常者」の扱われ方に着目し、Foucaultの異常者やBakhtinの民衆的グロテスクといった概念を参照しつつ、現実世界ではタブー視され、発言にも慎重さが要求されるはずの主題が、いかにして舞台上で提示され、しかも笑いを生み出して、多くの観客に受け入れられてきたのかを考察する。

二作品において問題行動を引き起こす精神異常の登場人物たちに共通する特徴は、彼らが、自分たちが異常であることには気づいておらず、したがって、異常であるがゆえに起こった問題に対して責任を感じていないことである。問題の処理に奔走させられるのは、常に周囲の正常な人物たちである。この点、Neil Simonの描く神経症的な登場人物とは大きく異なっている。Simonの登場人物は、自分たちの持つ、閉所恐怖症、潔癖症といった症状を認識しており、そのことによって起こる問題に責任すら感じて、周囲との対応を図る。その際の彼らのぎこちない言動が、Bergsonの言うところの「こわばり」を持つものであり、笑いを引き起こす大きな要素となる。一方、上記二作品において「こわばり」のある行動を見せるのは、むしろ正常な人物たちであり、問題を起こした当の本人たちは、まったく取り乱すこともなく、淡々とのびのびとして日常を暮らしている。Arsenic and Old Lace の二人の老嬢は、慈善事業との信念のもとに身寄りのない老人たちに毒入りワインを飲ませ、地下室に埋葬しており、この事実を知って甚だしく動揺するインテリの甥とは対照的に、自分たちの引き起こした殺人・死体遺棄という問題の深刻さにはまったく気づいていない。さらに興味深いのは、二人の別の甥で長年行方知れずになっていたJonathanが、凶悪な殺人鬼となって帰宅し、室内に死体を隠すと、老嬢たちは、Jonathanの殺人という行為は明らかな「犯罪」と見做し、持ち込まれた「死体」は、自分たちが地下室に埋めた死体とは別の意味を持つ侵入者として扱うことである。ArsenicのJonathanは、顔も姿もフランケンシュタインにそっくりな、いわば「怪物」であったが、Harveyにおいては、怪物的存在は、異常者として周囲から疎んじられているElwoodではなく、彼にだけ見えるHarveyという身長2メートルのウサギである。Elwoodは彼をpooka(化け物)と呼ぶ。

本発表では、同時代のハリウッド映画に見られる同種の表象をも参考に、歴史的文脈を視野に入れつつ、「異常者」や「怪物」、さらには「死体」といった概念とその表象の持つ意味が、これらの芝居の中で時々に変化し、笑いを誘う要素となるメカニズムを分析していく。