1. 第6室(55年館6階 563教室)

第6室(55年館6階 563教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
山下 昇

1.モダニズムの南部的瞬間

  越智 博美 : 一橋大学

2.Katherine Anne Porter とナチズム― Ship of Fools を読む

  木村 章男 : 神奈川大学

前川 裕治

3.ニヒリズムの完成―Richard Wright の The Outsider

  竹内 美佳子 : 慶應義塾大学

4."A Harmonious Whole" を求めて―Alice Walker の Possessing the Secret of Joy における文化的・性的多様性の位相

  星 かおり : 東北学院大学(院)



越智 博美 一橋大学


南部文学の正典がモダニズムを中心とした男性作家を中心に創られてきたことは指摘されて久しい。こうした南部文学および南部性とその正典は、主に新批評を土台に作られたのだが、そもそも新批評が南部の文化運動にその誕生の歴史的な一端をもちながらも、南部性とは無縁を装ったこと、そしてモダニズムと、それ以降の、それに支えられた冷戦期の文学の正典もまたその新批評の枠組内で形成されたという点について論じられることはほとんどない。

言説として構築される南部は、Nina Silberが南北戦争後から1900年までの分析で示したように、常に北部との関係において、北部によって、また南部によって創られてきたが、その際その「南部」は南北の言説上のせめぎ合いのなかでしばしばジェンダー性を帯びてきた。しかし、これは世紀転換期を大きく越えてさらに1920年代、30年代にまで及んでいるのではないか。モダニスト詩雑誌 Fugitive にかかわり、I’ll Take My Stand (1930)にかかわったDonald Davidson, John Crowe Ransom, Allen Tate, Robert Penn Warrenらが「南部」に目を転じる契機とされたScopes裁判(1925)を中心とする時期、南部の後進性を非難する言説も、逆に南部を擁護する言説も,ともに南部の男性性の有無をめぐる比喩が多用されているのである。

そうした男性性をめぐる言説に応えるかのように、DavidsonやTate、Ransomらが1920年代後半から30年代にかけて発表した詩や小説には父親像が溢れている。北部の英雄John Brownの脱神話化や女々しい南部の男の代表格Jefferson Davisの再男性化が語られ、あるいは人種の優越に基盤を置いた雄々しい父祖像が“Tall Men”として語られる。こうした父親の群れを描く Fugitive詩人=農本主義者=新批評家たちは想像の上で、北部を父としない新たな父、あるいは彼らにとって正しく強い父たちを、ある種のファミリー・ロマンスのようなものとして創出したとも言えるかもしれない。

こうした文脈に新批評を置いたとき、1930年代半ば以降にその力を強めていく新批評が、詩を読む行為を語る言葉は興味深い。端的に言えば、ロマン主義の詩とロマン主義の詩を読む行為を女性的で受け身であるとし、形而上詩やモダニズムの詩そのもの、そしてそれを読むことに男性性を適用するのである。そして、その語彙は彼らが南部文学の正典を語る言葉にも共通する。こうした新批評が政治性を隠蔽しつつ冷戦言説の男性性と手を取り合う瞬間こそ、おそらく新批評のアメリカ化の瞬間であった。本発表は南部的な瞬間としての新批評と、新批評が評価するモダニズムとを、南部言説のジェンダー性を介して連結させて考察する試みである。


木村 章男 神奈川大学


Porterは Ship of Fools の冒頭に付した覚書で “I am a passenger on that ship.”と現在形で書いている。この言葉は偶然そうなのか、必然的にそうなのかを問うことで、意味が違ってくる。つまり自分はたまたま今の時代に乗り合わせただけの、普遍的な観点を持ち合わせた観察者=傍観者であるのか、あるいは自分もまた今という特定の時代、あるいはイデオロギーに囚われながら考えざるを得ない一人の共犯者なのか、ということだ。

Porterは同じ覚書の中で、この小説のタイトルをSebastian Brantによって書かれた中世ドイツのアレゴリーDas Narrenschiff (The Ship of Fools)から得たことを明かしている。だがPorterはもしBrantが1931年にドイツ行きの船に乗り合わせたら、もう一度 Das Narrenschiff を書いただろう、と言っているわけではない。Porterは決して人間はいつの時代も変わらないと言っているわけではないのだ。この小説は作者の1931年のドイツへの船旅を主な題材とし、1940年に着想を得、実に21年をかけて書かれ、1962年に出版された。最初のドイツ体験から、小説の出版まで31年の時が過ぎ、その間第二次世界大戦があり、アウシュヴィッツがあり、冷戦があり、その下での赤狩りがあった。Porterが言う「その船」とはこの特定の時代のことである。もしこの小説が悪について書かれているとしても、それはPorterを紹介する簡単な解説書などで言われているような、いつの時代にも通用する普遍的な悪ではなく、1930年代から1950年代にかけて彼女が見た、あるいは属していた社会における悪のことなのだ。

Robert H. Brinkmeyer, Jr. は Katherine Anne Porter’s Artistic Development: Primitivism, Traditionalism, and Totalitarianism (1996) において、この小説には冷戦下において共産主義という全体主義を排斥するため、赤狩りというもう一つの全体主義に陥ったアメリカ社会へのPorterの批判と失望が反映されていることを指摘している。また、Thomas Carl Austenfeldは American Women Writers and the Nazis: Ethics and Politics in Boyle, Porter, Stafford, and Hellman (2001)で、この小説がドイツ人をナチ=悪と見立てて断罪する単純な観念小説になっているのは、作者が戦後のアメリカで得た知識に基づいて書かれているためであると論じている。いずれにせよ二人とも、ポーターが悪の内に自分を含めていないことを示唆しているが、今回の発表ではこうした先行研究を批判的に継承しながら、Ship of Fools においてPorterは十分に自己批判的であることを指摘したい。


竹内 美佳子 慶應義塾大学


Richard Wright (1908-60) は、第二長編小説 The Outsider (1953) において自然主義的枠組みを離れ、人種問題を超えた焦点を鮮明化することで、「抗議小説」からの転換を行った。殺人は二人の登場人物で十分との思いから、Bigger Thomasの処刑を前に Native Son (1940) に終止符を打ったWright が、The Outsider において、主人公の銃殺を含め累々と築いてみせた死体の山は、何を意味するであろうか。Wrightが主人公の殺意を、時代の暗喩として争点化していることを読み解きたい。

連続殺人犯Cross Damonの憎悪の矛先は、絶対的「真理」によって他者を誘惑し、自己の世界像を他者に共有させようと企む諸般の態度に向けられる。自身の冷酷な観念的論理に駆られるままに、一連の最終決着をつけてゆく彼は、反動的な権力意志に対する批判自体が、反動化してしまうことへの絶望に行き着かざるを得ない。暴力の連鎖を生み出す主人公の自家撞着は、反動的な力の勝利を意味するものであり、Damonは、人間の諸々の転変の中に自身の力と質とを保有し続けるニヒリズム/否定的精神としての悪魔の表象であるとも言える。自己の価値を計れる「恐るべき責任」を求めて潔白を自認するDamonの在りようは、深南部の人種テロリズム、共産党の組織的抑圧、マッカーシズム下の国家機関による圧力を通じて、権力の諸相と向き合ってきた著者の発する警鐘でもある。

Wrightは、Damonを追及するニューヨーク地方検事Ely Houstonに、法権力の代表者を超えたもう一人のアウトサイダーとして、主人公の鏡像的役割を担わせている。Houstonが犯人特定に至る決め手の一つは、Damonの蔵書に含まれる「危険な」哲学書(=“guilty thoughts”)であった。「思想なるもの自体が疑わしいという思想以外もち合わせていない」と豪語するDamonを、最終的に不起訴放免とすることによってHoustonは、被疑者のうちに見出した「誤読」を告発したとも考えられる。果たされぬ約束の等価物としての刑罰を迂回したことにより、「無責任な者」になり得なかったというパラドックスこそ、Damonの体現する悲劇ではないか。主人公の完全犯罪と死とが提示する問いを、Wrightの生きた時代状況と、作品の最終章に掲げられたNietzscheの引用に照らして考察したい。


星 かおり 東北学院大学(院)


Alice Walker (1944- ) の5番目の長編 Possessing the Secret of Joy (1992) は、Walkerの多くの作品に見られる ‘crazy quilt’ の構造をなしており、主人公Tashi、その他の登場人物達を含め、8人の語り手達の独白で構成されている。そして、その独白にはそれぞれ語り手の名前が付与されている。その語りの6割ほどが精神を病んだTashiの語りであり、Tashiの語りの箇所はTashi、Evelyn、Tashi-Evelyn、Evelyn-Tashi、Tashi-Evelyn-Mrs. Johnson、Tashi Evelyn Johnson Soulというように語り手の名前が変化していく。本発表では、主人公Tashiと彼女を取り巻く人物達の名前を手がかりに、この小説が内包している文化的・性的多様性の位相について考察することを目的とする。

Lauret (2000) は、語り手Tashiの名前の変遷について、DuBoisの “double consciousness” という概念を援用し、アフリカに属する意識をもつTashiとアメリカ人としての意識をもつEvelynの二重意識の葛藤として分析している。そしてこの相反する位置に配置されるアイデンティティが次第に “a harmonious whole” に統合されていくと述べている。

文化的多様性、性的差異による抑圧のなかで葛藤するTashiにとって理想的な境地は “a harmonious whole” であるが、Tashiの揺れ動くアイデンティティは、“a harmonious whole” という境地に辿りつけるのであろうか。Tashiは幼少時、宣教師一家から教育を受けた結果、部族のアイデンティティとは異なる要素が既に彼女の意識に芽生えていた。また、渡米後に息子Bennyを出産した時、アメリカの医者達が彼女の性器を物珍しげに観察する様子は、彼女がアメリカにおいて異質な存在であることをTashiの意識に刻み込む。「アフリカ的・西洋的アイデンティティをもち、アフリカの女の印をその身体に刻み込んだ、アフリカ系アメリカ人の宣教師の妻」として生きるTashiは生涯、どの文化圏に身をおいても常に「他者」であり「異質な存在」として眼差しを受ける。どの文化圏もTashiがもつ文化的多様性・ジェンダーをあるがままに許容する場ではないのだ。「異質な存在」とTashiを眼差す視線により、Tashiは常に自らの内に「その文化圏では異質な要素」を自覚させられ続ける。Tashiは “a harmonious whole” を求めつつも、「その文化圏では異質な要素」が内在している限り、相反する意識の揺らぎから逃れることはできない。

本発表では、Tashiの名前の変遷を中心として、Tashiとその他の語り手達との関係を考察しながら、“a harmonious whole” を求めつつも、相互の人格の間の違和を内に抱えたままであったTashiの葛藤を検証する。

また、その他の語り手達も文化的多様性をもち、なかには性的多様性を帯びている人物もいる。彼/彼女達の持つ文化的・性的多様性がどのような意味を作品に与えているのか、そしてこの文化的・性的多様性と作品の多声的構造との関係も明らかにする。