1. 第5室(55年館5階 552教室)

第5室(55年館5階 552教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
田中 敬子

1.普遍国家と生の間で― “Red Leaves”にみる「アメリカ」のダイナミクス

  井出 達郎 : 北海道大学(院)

2.相対化される悲劇―Light in August の Joe Christmas をめぐって

  横溝 仁 : 中央大学(院)

花岡 秀

3.William Faulkner, Go Down, Moses における黒人の自殺について

  西川 和宏 : 早稲田大学(院)

4.Go Down, Moses の語りの技法

  重迫 和美 : 比治山大学



井出 達郎 北海道大学(院)


1930年に発表されたWilliam Faulknerの短編小説“Red Leaves”は、インディアンと黒人というふたつの共同体を軸とした、時間的・空間的に限定された枠組みの中で展開している物語でありながら、20世紀の「アメリカ」というより広い枠組みから読むことができる。作品は一方で、「アメリカ」を「世界」と同一視するという普遍化された国家意識が、包括的なアイデンティティによる時空間の画一化を目指し、黒人やインディアンという「非アメリカ的なる」共同体を飲み込んでいく普遍国家の運動を示す。しかしそれと同時に、その運動からどこまでも離脱し、あらゆるアイデンティティから切り離されていく生の運動というものを描きだしていく。本発表では、この相反するふたつの運動の間において浮き彫りにされる「アメリカ」を論じたい。

“Red Leaves”にみる「アメリカ」という枠組みは、19世紀から20世紀にかけての国家意識の変容をその背景として考えることができる。19世紀末までの国家意識とは、「アメリカ的なるもの」から「非アメリカ的なるもの」を排除するという自己閉鎖的で孤立主義的なものだった。しかし、国際的な世界に介入し、海外地域の領有者となり、債務国から債権国となっていくアメリカは、自らを「世界の先導者」「人類全体の先導者」と位置づけ直していく。その結果、20世紀の国家意識は、「非アメリカ的なるもの」を「アメリカ的なるもの」に同一化させなければならないという使命感を帯びた、普遍国家としての意識へと変容する。

“Red Leaves”に描かれるインディアンや黒人とは、この普遍化された国家意識によって飲み込まれていく「非アメリカ的なるもの」にほかならない。「白人と同じようにしなければならない」という意識の下、彼らは自らの共同体固有の空間や時間から切り離されていく。白人の文化圏から持ってきた赤い靴を履き続けることだけに執着するインディアンの首長、自らをとらえている共同体の「外」へ出るという考えが欠落している逃亡奴隷、その姿から浮き彫りになるのは、彼らの自我、記憶、帰属意識に働きかけ、それをただひとつの包括的なアイデンティティへとつくり変えていく普遍国家の運動である。

しかし作品は、そのような普遍国家の意識からどこまでも離脱しようとしていく運動も同時に描きだしていく。赤い靴を脱いだときに首長が上げる「アー・アー・アー」という言葉にならない呻き、「もう死んでいる」という自らの声を打ち消すようにして湧き上がる「まだ死にたくない」という逃亡奴隷のもうひとつの声、そこにあるのは、普遍国家の運動に飲み込まれていく自我、記憶、帰属意識とは別の次元で作動し、あらゆるアイデンティティから切り離されていく生そのものの運動である。

この相反するふたつの運動は、「そのどちらが真のアメリカであるか」といった単純な二項対立の問いに回収することができないような形で「アメリカ」を捉えているだろう。そこに見出されるものは、「白人」「インディアン」「黒人」といった個々の共同体やアイデンティティのせめぎ合いを越えたところにある「アメリカ」のダイナミクスである。


横溝 仁 中央大学(院)


William Faulknerは Light in August (1932)においてJoe Christmasの人種意識の遍歴を、噂話などを織り交ぜた虚実入り混じる複雑な物語形式を通して描き出している。Alfred Kazin、 Cleanth Brooks、などの先行批評を参照すると、主にJoe Christmasは否定的、受動的存在として解され、たとえ肯定的な側面が指摘されたとしても、最終的には悲劇的主人公として結論付けられてきた。Christmasが人種規範の支配下で自らの人種的アイデンティティを同定できないまま、「白人性」と「黒人性」の狭間で葛藤し、最終的に人種規範の下で「黒人」として処刑されるという解釈である。しかし、こうした読みは一面的な解釈に過ぎない。本論では、James Sneadの Light in August 論、Judith Butlerの Gender Trouble (1990)を参照しつつ、Christmasの人生を「人種規範」、「言葉の力」、「共同体の反応」という視点から読み直し、Christmasの新たな側面を指摘するとともに、最終的にChristmasの悲劇の相対化を試みたい。

Christmasは、白人孤児院での幼少期、他者によって繰り返し発せられた“nigger”という言葉を通して自らのうちに「黒人性」を内面化し、人種的に不確定な人物となる。紆余曲折の後、ChristmasはJoe Brownの告げ口と町人の噂話を経て「Joe Christmasは白人女性Joanna Burdenを殺した黒人強姦魔だ」という致命的な状況へと追い込まれ、最終的に白人至上主義者のPercy Grimmによって「黒人」として殺害される。こうした一連の過程に注目すると、Christmasは人種主義、他者の言葉、告げ口、噂話、端的にいえば「人種規範」と「言葉の力」に支配されてきたといえる。この点において、Christmasは自己の人種的アイデンティティを同定できず、「人種規範」と「言葉の力」に翻弄される悲劇的な存在として解釈できるだろう。

しかし、Joanna Burden殺害後、Christmasが町へ戻ってゆく過程に注目すると、Christmasの人種的不確定性は、町の人々の視点において、Christmasの人種的匿名性として浮かび上がり、この人種的匿名性は町の人々のステレオタイプな人種観に収まらず、かれらの人種的アイデンティティを脅かすことになる。このとき、Christmasは単に「人種規範」、「言葉の力」に翻弄される悲劇的な存在というよりは、むしろ町の人々の人種的アイデンティティを揺るがす脅威的存在として浮かび上がってくる。脅威的存在としてのChristmasは町の人々の恐怖(fear) ――人種的アイデンティティの不安定化という恐怖―― をあおり、いっぽう、町の人々はその恐怖から逃れたいという欲望に駆られ、その欲望は、共同体を代表するPercy Grimmによる「象徴的リンチ」としてのChristmas殺害として具現化する。Christmasは町人の期待、町の人種規範に合致した形で「黒人」として処刑されてゆくが、その死の場面に注目すると 、町の人々の人種的アイデンティティを揺るがすようなChristmasの脅威的存在性が町の記憶に残ってゆくことが示唆される。

Joe Christmasとは単に「人種規範」や「言葉の力」に翻弄される悲劇的存在ではなく、町の人々に人種的アイデンティティの不安定化という恐怖を突きつけるような脅威的存在として読み取れるのである。結果として、Joe Christmasの悲劇は相対的に町人の悲劇として浮かびあがってくる。Joe Christmasの存在性が町人の悲劇、つまり、町の人々がその人種主義によって自ら人種的アイデンティティの不安定化へと陥る悲劇を可視化するのである。


西川 和宏 早稲田大学(院)


かつてアメリカ南部の白人社会では、黒人は自殺しないと多くの者が信じていた。例えば、William Faulkner, “That Evening Sun” (1931)において、白人たちは“no nigger would try to commit suicide unless he was full of cocaine”と噂する。誰よりも自殺することの困難に直面する黒人は、Go Down, Moses (1942)においてクリスマスの日に入水自殺する奴隷のEuniceだろう。彼女もまた“Who in hell ever heard of a niger drownding him self”と言われ、自殺したことを疑われる。結局彼女の死はAmodeus McCaslinによる推測と、Isaac McCaslinの想像の中で初めて自殺と認められる。彼女は人間としての生を奪われるばかりか、自らの意思で死ぬ能力さえ否定され、白人の解釈者を待たねば自殺という行為を完遂することもできないのである。

また、Euniceがクリスマスの日に自殺しているという点も問題にすべきだろう。彼女はキリスト降誕祭に死ぬことで宗教的救済を願ったのだろうか。しかし、黒人奴隷の自殺について調査したWilliam D. Piersen によれば、南部のキリスト教各派は、自殺は罪であり、自殺すれば天国に行けないと奴隷に教えていた。そのためもあって、実際に黒人奴隷の自殺率は白人に比べて低かったとも考えられているのである。それでも奴隷がキリスト降誕祭を選んで自殺したのならば、それはむしろ、絶望のあまりキリストによる救済さえ拒否した死だったということではないか。

Euniceについては、所有物として台帳に記録されたわずかな記述とIsaacによる想像しかないため、彼女をひとりの生きた人間として論じるのは非常に難しい。そこでテクストには書かれていないEuniceの心理まで想像し、彼女の悲嘆や娘を守れなかった罪意識、自分自身に対する怒りなどを推測するThadious M. Davisの試みもあるが、本発表では同じ Go Down, Moses の別の黒人登場人物である“Pantaloon in Black”のRiderと合わせて論じることにより、Euniceの自殺の特殊性を浮き彫りにしたい。Euniceの死が語られる“The Bear”第四章に先立って、Riderは神に対する不信の言葉を口にし、Richard Godden, Noel Polkが“a perverse suicide”と言っているように、白人を殺すことで自らの死を招く。本発表では、生きた時代も性も違う二人の黒人登場人物の死を比較することにより、白人社会の中で、彼らの宗教的な苦悩と特異な自殺の形態がどのように結びついているかについて考察する。


重迫 和美 比治山大学


William Faulknerの Go Down, Moses (1942)は,初版のタイトル Go Down, Moses and Other Stories に驚いたFaulknerが “and Other Stories”の部分を削除するよう出版社に抗議したという興味深い出版経緯を持っている。作品に織り込まれた各エピソードのほとんどが,本作以前に独立した短編として書かれたもので,実際,それぞれが完結した作品のように見えることから,出版社は本作を“stories”と見なしたのだが,Faulknerは“a novel”だと主張したのだ。

結局, 1955年版から,本作のタイトルはFaulknerの要求通り Go Down, Moses に改められたが,両者のタイトルをめぐる論争は研究に波及し,“a novel”として本作全編を包括する全体的なテーマを究明することが重要な課題とされた。そして,バラバラに書かれたエピソードを一つの作品とするためにFaulknerが行った視点人物の変更等,加筆修正の分析を手がかりに,「人種」や「荒野」などの重要なテーマが変奏されながら全編に通底していることが明らかにされてきたのである。

結局, 1955年版から,本作のタイトルはFaulknerの要求通りGo Down, Mosesに改められたが,両者のタイトルをめぐる論争は研究に波及し,“a novel”として本作全編を包括する全体的なテーマを究明することが重要な課題とされた。そして,バラバラに書かれたエピソードを一つの作品とするためにFaulknerが行った視点人物の変更等,加筆修正の分析を手がかりに,「人種」や「荒野」などの重要なテーマが変奏されながら全編に通底していることが明らかにされてきたのである。

本作の語りの多様性を,できあいの短編エピソードをまとめて作られたが故の作品の限界と断じて,無視するべきではないだろう。例えば “Was” では,加筆修正の際,Faulknerは視点人物の名前を変えるだけではなく,視点人物Bayardに “I” で言及する一人称の語り手から,視点人物McCaslin Edmondsに “he” で言及する三人称の語り手へと語り手を変更しており,独立,完結した各エピソードを一つにまとめるため,彼がエピソードの語りの様式にも決定的で入念な変更をしている事実が認められるからだ。

本発表では,本作の語りを詳細に分析し,その多様性と意義を明らかにしてみたい。