1. 4.鰐とアメーバ―― Pynchonの V. にみる1950年代の環境論

4.鰐とアメーバ―― Pynchonの V. にみる1950年代の環境論

波戸岡景太 明治大学


1950年代半ば、Dwight D. Eisenhowerの政権下にあったアメリカは、冷戦期の国土の安全を図るためにハイウェイの網羅的な敷設を推し進めた。現代社会における自然と人間の関係を考えるとき、大陸横断鉄道以来の大事業であるこのハイウェイ計画がもたらした物質的かつ精神的な影響はきわめて多岐にわたる。その一端は、たとえば当時を「現在」とするThomas Pynchonの長編デビュー作 V. (1963)において、主人公のひとりであるBenny Profaneがストリート・パラノイアとでも称すべき症状を呈していることにも表れている。

ハイウェイシステム以前のアメリカ横断を描いた On the Road (1957)への強い憧れと反動が生み出した作家のペルソナProfaneにとって、およそあらゆる「道路」は快楽ではなく恐怖の対象となる。それは、すでに多くの研究が指摘するように「生命なきもの」(inanimate)の氾濫に対する恐れであった。物語の前半で地下(under the street)に潜ったProfaneは、そこで都市伝説的存在のアリゲーターに遭遇するが、彼らはまさに生まれながらの「商品」であり「生命なきもの」に限りなく近い。とりわけ、ハイウェイシステム以後の環境と人間、あるいは環境と文学の関係を考察していく本発表が注目するのは、このアリゲーターが本当に「生命なきもの」となる瞬間――Profaneに撃たれたあとにアリゲーターが血を流すシーンである。射殺されたアリゲーターの血が「アメーバのよう」と形容されるとき、読者は、それが本来Profane自身の身体(a great amoebalike boy)を描写する比喩であったことを思い出す。このとき、壮大な国土改造計画が進む一方で、「アメーバ」という原始生物を媒介としてつながりあう狩猟者と獲物は、自然と人間の、むしろ近すぎるがゆえに危険な関係を露呈する。このことは、V.というシンボルによって短絡的に結びつけられた本小説のもうひとつのプロット、すなわち人間(Victoria Wren)と機械(悪司祭)とネズミ(Veronica)の関係についても言えるだろう。記号の氾濫に彩られた小説世界が、作家あるいは読者のパラノイア的想像力によって再構築されるとき、そこから欠落してしまうかに見えるのは、「自然」と「人間」のいずれかではなく、両者の距離感を指し示す「環境」なる概念に他ならない。

このような観点からしても、1990年代以降、エコクリティシズムがある面でポストモダニズムに敵対するようにして理論的発展をしてきたことは大きな意味を持つ。だが一方で、本発表が V. にみる「環境」とその問題点とは、あくまでも自然と人間の「近すぎる近さ」にあるのであって、「人間中心主義」から「環境中心主義」へというエコクリティシズム的題目とは一線を画すことは強調されてしかるべきだろう。ビート世代やヒッピー世代、あるいはX世代(多くの代表的エコクリティックは1960年前後の生まれ)とも異なる、1950年代に10代を過ごした若者たちにとっての「環境」とはいかなるものだったのか。V. のみならずPynchonの後年のエッセーをも参照しつつ探っていきたい。