1. 3.依存・共存・自己実現――思索小説として読むThe Adventures of Augie March

3.依存・共存・自己実現――思索小説として読むThe Adventures of Augie March

岩橋 浩幸 大阪大学(院)


Saul Bellowの第3長編 The Adventures of Augie March (1953)(以下AAM と略記)は、全米図書賞に輝き、Bellowの名を一躍有名にした彼の出世作であり、また、Bellow自身がHerzog (1964)出版後のインタビューの中で、「AAM を境に、私は自由な文体を獲得した」と述べていることからも分かるように、彼の作家人生の転機を画した記念碑的作品である。だが、これを受けて、文体論研究をはじめとした多くの先行研究は、「Bellowが AAM をきっかけに Dangling Man (1944)及び The Victim (1947)からどう変わったか」ということにばかり関心を払い、陰鬱な思索小説から明るく伸びやかなピカレスク小説への移行ということに、その議論を終始させてきた。もっとも、「人生の中軸線」、「よりよき運命」といった、一見明るく肯定的に聞こえるいくつかの形而上学的キーワードは、しばしば議論の俎上に載せられてきたが、それにしても、ピカレスク小説、あるいは冒険小説というあたかも自明であるかの前提から、その議論が出発しており、AAM が孕む思索の細部にまで踏み込んだ議論はこれまであまりなされてこなかったように思われる。

そこで、本発表では、AAM をBellowの初期作品の流れを汲む思索小説として改めて読み直す。具体的には、作品の最終章半ばに到達するまでの回想物語に含まれる種々の議論や哲学的考察を主人公Augieの思索と捉え、思索の役割を、作品終末部においても依然として果たされない、「相互理解を前提とした、他者との共存」を彼が今後果たそうと模索していくための手段と定義する。というのも、彼の、自己をこれまで成型してきた膨大な数の他者を次々と描写してゆく態度からは、自分はどこまで他者の思索についてゆけるか、他者はどこまで自分の思索を理解し、ついてきてくれるかという問題意識が常に垣間見えるからである。

だが、そのような理想的共存を目指し、その思索を深めれば深めるほど、思索の中身をコンパクトに要約して相手に伝えることはますます困難になってしまう。そして、その結果、互いの主義主張が結局のところ理解されないまま、Augieは、一方的依存という逆説的現実に陥ってしまうのである。しかしながら、そういったジレンマにもかかわらず、彼はその思索を決してやめようとせず、共存という名の自己実現をひたすら目指す。彼をそこまで思索に駆り立てるものとは何なのか。彼は何故、依存を嫌悪し、自己実現を目指すのか。これらの問いを足掛かりに、Dangling Man やThe Victim にも言及しながら、ピカレスク小説という側面にのみ光を当てていたのでは中々見えてこないように思われる、思索小説としてのAAM の可能性を追求してみたい。