1. 2.Daisy Miller におけるアメリカ人の葛藤 ――Henry Jamesの異文化理解

2.Daisy Miller におけるアメリカ人の葛藤 ――Henry Jamesの異文化理解

瀧口 美佳 立正大学(院)


本発表では、Henry JamesのDaisy Miller を取り上げ、当時のヨーロッパ大陸でアメリカ人が抱えていた心的葛藤を複眼的に捉え直して分析したい。またアメリカ文化とヨーロッパ文化の狭間に身を置き、両方の価値観に対して共感と反発の間を揺れ動きながら生涯を送ったHenry James個人の心的葛藤や懊悩についても言及する。

Daisy Millerの魅力は「自然と自由の子」と評されるように、いわば「無邪気」と「純真」を表象した属性にある。だが、逆にこの「天真爛漫」ともいえる彼女の魅力がヨーロッパのアメリカ人らには敬遠されてしまう。しかし、彼らアメリカ人の祖先が、信仰の自由を求めることを大義としてヨーロッパ大陸から移住してきたことを考えれば、比喩的な意味でDaisyこそが本来のアメリカ人の姿であったといえるのではないか。一方、そのDaisyと対比されているのがCostello夫人である。Daisyが「アメリカ」を体現しているならば、彼女はまさに「ヨーロッパ」を体現していると言える。ヨーロッパで生活するCostello夫人やその仲間たちは、「計算高く裏表のある」ヨーロッパのアメリカ人社会に属するものの、真のヨーロッパ社会の一員としては永遠に認めてもらえないという葛藤を抱えていたのである。

そして2人のアメリカ人女性の間に位置づけられている存在が、語り手のWinterbourne青年である。彼は前半部分では、明らかにDaisy(アメリカ文化)側につき彼女を擁護しているのだが、後半に進むにつれDaisyの無分別ともいえる行動に違和感を覚える。そして次第にCostello夫人(ヨーロッパ文化)側へと傾斜していくのである。アメリカ人でありながらアメリカ文化に対して感じるWinterbourneの違和感が、Henry James自身がヨーロッパ大陸での長期滞在中に感じていたある種の危機感に通じる、といっても不思議ではない。

本発表では、国際テーマとも密接に関係するDaisy Miller を通してアメリカ文化とヨーロッパ大陸文化間に生じた異質性について、Henry Jamesの辛辣な眼差しを取り上げて検証するとともに、彼が19世紀末に提唱した「異文化理解」と現代社会に与えた大きな示唆に関して、考察するつもりである。