1. 第8室(1号館5階 152教室)

第8室(1号館5階 152教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
 

1.セッションなし

上岡 伸雄

2.「グランド・コズモ」を夢見る―― Martin Dressler の建築表象における最大と虚空

  土井 一郎 : 大阪外国語大学(院)

3.「独立宣言」に対する亡霊的応答――Arc d’X における「アメリカ」の死の遅延

  内田 有紀 : 大阪外国語大学(院)

木原 善彦

4.鰐とアメーバ――Pynchonの V. にみる1950年代の環境論

  波戸岡景太 : 明治大学



土井 一郎 大阪外国語大学(院)


本発表で扱うことになるMartin Dressler: The Tale of an American Dreamer (1996)が1997年にピュリッツァー賞を受賞したものの、Steven Millhauserという作家は現代アメリカ文学界の中で依然として影の薄い存在であると言わざるを得ない。短編を得意とする彼が作品の中で扱う題材も、自動人形や、遊園地、盤上ゲーム、博物館といった「ソフトでチャイルディッシュ」なメディアで溢れている。

そんな彼が、1996年発表の長編小説 Martin Dressler で描いてみせた「ホテル・建築・実業家」というテーマは、Millhauserという作家を素朴なアメリカン・イノセンスと結びつけて理解していた読者の目に、突然の作風の転換として映ったかもしれない。しかし、主人公Martinが最終的に建築する、森羅万象を内包し、ありとあらゆるサービスを提供する巨大な複合ホテル「グランド・コズモ」を通して描かれる「最大」「過剰」「蒐集」といったモチーフは、これまでのMillhauser作品で描かれてきたテーマを継承していると言える。すなわち、彼の得意としてきた「箱庭的な小宇宙におけるダイナミクス」というテーマが、この作品では勃興期の「摩天楼」という都市空間において展開されているのである。このように、Millhauser作品の根底を流れ続けてきた「ミクロ/マクロへの偏愛」は、その寓話的な文体も手伝って、摩天楼の建築的最大志向性と呼応しながら、アメリカという国自身の最大志向性へと敷衍的に重なり合っていく。その一方で、「もはや一個の街に等しい」ほどの巨大なホテルを実現しながらも一向に満たされないMartinの際限無い欲望が引き起こす「空虚さ」が、先の「最大性」と同様に物語の重要な核となっている点も見逃すことが出来ない。

本発表では特に、主人公Martinが実業家としての成功の末に建設する「グランド・コズモ」という巨大建造物に注目し、同様の「アーカイブ」装置である図書館、デパートメント・ストア、美術館といった建築表象を扱ったBenjaminやCrimp、Koolhaasらの論考をふまえながら、夢想される「最大性」とそこに逆説的に憑きまとう「虚空性」について考察する。さらに、"Bigger is Better"というアメリカの精神性が、こうした「最大志向性」のまたとない舞台となってきた点に注目しながら、物質的所有の最大化を重んじる「資本主義社会/アメリカの夢」を検証する。また、同時にこれは「ソフトでチャイルディッシュ」なミクロコスモ的特徴が強調されてきたSteven Millhauserという作家の、逆説的な「ビッグネス」を読み直す試みである。


内田 有紀 大阪外国語大学(院)


Steve Erickson5作目の Arc d’X (1993)においては、アメリカ建国の父として知られる第三代大統領Thomas Jeffersonと彼の奴隷であり愛人でもあったSally Hemingsとの愛と自由をめぐる関係が主軸となり、それがさまざまな時間、空間に属する人々を巻き込みながら、歴史や世界を書き換えていく様が描かれる。本作品において物語展開の契機を提供する「独立宣言」は、Thomasによって「幸福の追求」という極めて私的な理念を書き込まれたために、アメリカ誕生の書であると同時に不可避的にアメリカの死をも宣告してしまう。つまり、政治的理念としての「アメリカ」はその私的な物質的欲望充足の追求をも肯定することにより、自らを脱構築的に死へと追いやってしまう。それを雄弁に物語っているのが、ThomasとSallyの関係である。Thomasとの性愛関係においてSallyは彼をめがけてナイフを振りかざすが、彼女の身振りは「独立宣言」が運命づけたアメリカの死の実演に他ならない。しかしSallyのナイフは結果的にThomasではなく白いベッドを貫通し、彼女によるThomas=「アメリカ」殺害の瞬間は遅延される。本発表では、Arc d’X において「Thomasはなぜ直ちに殺害されなかったのか」という点から、「独立宣言」によって決定づけられた「アメリカ」の死に対するThomasの死の遅延の効果を考察していく。その際、テクスト内に看取される、Thomasの死の遅延を促す多様なレベルのズレに着目し、それが複数のアメリカをいかに亡霊的に呼び込み接合していくかについて検証を試みる。

夢を見ることによりSallyが神権政治体制の近未来都市イオノポリスに時空間的に移動すると、語りの視点はSallyからイオノポリスの警官Wadeにズラされる。この語りの視点のズレは、Sallyの夢が他者Wadeによって貫通され、その固有性が脱臼されたことを示すものである。反復される語りの視点のズレが、夢と現実を接合させながらThomasをテクスト内の関心から疎外する一方で、「幸福の追求」と書かれた石が「盗む」行為を通して登場人物間をリレーされる様は、彼ら自身の「幸福の追求」が「アメリカ」を変異させていくことを暗示している。だが、各登場人物のトラウマ的記憶の徴候が灰、煙、Vogとして現れるとき、そこに奴隷女性EvelynについてのThomasのトラウマ的記憶の痕跡を読み取ることもまた可能である。このことは、「アメリカ」が登場人物たちによって変異させられながらも常にThomasのトラウマ的記憶を内包していることの表れに他ならない。さらに言えば、歴史の分岐点としてのSallyの応答「イエス/ノー」がアメリカの「染色体」と表現されていることから、彼女が「アメリカ」に貫通させたのはナイフではなく生存のための遺伝子だったと解釈できる。Sallyを始めとする登場人物たちは、それぞれが「幸福の追求」への応答者であり、彼らは応答を通じて政治的言説「独立宣言」の行為遂行性を脱構築していく。Jeffersonの「独立宣言」は、未来の他者による応答によって補完されるのである。本発表では、「独立宣言」が遅延を通していかに亡霊的染色体としての他者と有機的に連結されるかを考察したうえで、応答の連鎖のプロセスのなかに表出されるアメリカの「剰余」を逆照射してみたい。


波戸岡景太 明治大学


1950年代半ば、Dwight D. Eisenhowerの政権下にあったアメリカは、冷戦期の国土の安全を図るためにハイウェイの網羅的な敷設を推し進めた。現代社会における自然と人間の関係を考えるとき、大陸横断鉄道以来の大事業であるこのハイウェイ計画がもたらした物質的かつ精神的な影響はきわめて多岐にわたる。その一端は、たとえば当時を「現在」とするThomas Pynchonの長編デビュー作 V. (1963)において、主人公のひとりであるBenny Profaneがストリート・パラノイアとでも称すべき症状を呈していることにも表れている。

ハイウェイシステム以前のアメリカ横断を描いた On the Road (1957)への強い憧れと反動が生み出した作家のペルソナProfaneにとって、およそあらゆる「道路」は快楽ではなく恐怖の対象となる。それは、すでに多くの研究が指摘するように「生命なきもの」(inanimate)の氾濫に対する恐れであった。物語の前半で地下(under the street)に潜ったProfaneは、そこで都市伝説的存在のアリゲーターに遭遇するが、彼らはまさに生まれながらの「商品」であり「生命なきもの」に限りなく近い。とりわけ、ハイウェイシステム以後の環境と人間、あるいは環境と文学の関係を考察していく本発表が注目するのは、このアリゲーターが本当に「生命なきもの」となる瞬間――Profaneに撃たれたあとにアリゲーターが血を流すシーンである。射殺されたアリゲーターの血が「アメーバのよう」と形容されるとき、読者は、それが本来Profane自身の身体(a great amoebalike boy)を描写する比喩であったことを思い出す。このとき、壮大な国土改造計画が進む一方で、「アメーバ」という原始生物を媒介としてつながりあう狩猟者と獲物は、自然と人間の、むしろ近すぎるがゆえに危険な関係を露呈する。このことは、V.というシンボルによって短絡的に結びつけられた本小説のもうひとつのプロット、すなわち人間(Victoria Wren)と機械(悪司祭)とネズミ(Veronica)の関係についても言えるだろう。記号の氾濫に彩られた小説世界が、作家あるいは読者のパラノイア的想像力によって再構築されるとき、そこから欠落してしまうかに見えるのは、「自然」と「人間」のいずれかではなく、両者の距離感を指し示す「環境」なる概念に他ならない。

このような観点からしても、1990年代以降、エコクリティシズムがある面でポストモダニズムに敵対するようにして理論的発展をしてきたことは大きな意味を持つ。だが一方で、本発表が V. にみる「環境」とその問題点とは、あくまでも自然と人間の「近すぎる近さ」にあるのであって、「人間中心主義」から「環境中心主義」へというエコクリティシズム的題目とは一線を画すことは強調されてしかるべきだろう。ビート世代やヒッピー世代、あるいはX世代(多くの代表的エコクリティックは1960年前後の生まれ)とも異なる、1950年代に10代を過ごした若者たちにとっての「環境」とはいかなるものだったのか。V. のみならずPynchonの後年のエッセーをも参照しつつ探っていきたい。