1. 第7室(1号館5階 151教室)

第7室(1号館5階 151教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
馬塲 弘利

1.空隙を埋める――Paul AusterのThe Brooklyn Follies における逆説的空間

  小板 裕美 : 大阪外国語大学(院)

2.死へと向かう男、死から逃げる男――Don DeLilloのCosmopolis と White Noise

  野口 孝之 : 学習院大学(院)

 

3.セッションなし

岩田 和男

4.空想、イデオロギー、非現実的な現実性 Don DeLilloのUnderworld

  永野 良博 : 上智短期大学



小板 裕美 大阪外国語大学(院)


Paul AusterのThe Brooklyn Follies (2006) は、9.11同時多発テロ事件発生46分前までの「まだ幸せだった」アメリカを舞台にした小説である。Brooklynの眩い青空の下、人との繋がりの再生を果たし九死に一生を得て希望に満ちた主人公が歩き出す姿を描き、幸せな結末を予感させた所で一転、最後の僅か2段落で直後に発生するテロ事件に言及して終わる。その結末は、ようやく築き上げた個人間の繋がりを一瞬にして切り離し、人々の心に「空隙」を開けたテロの非情さを強調する。本発表では、多様なレベルでテクストを特徴付ける「空隙」を充填するという営為の両義性に着目し、そのささやかな営みこそが、「普遍の潤滑油」としてアメリカが地球上のあらゆる「空隙」に流し込んだ言説の欺瞞性をいかに逆説的に暴き出し、アメリカの“folly”を浮き彫りにしているかを論じてみたい。

肺癌に侵されBrooklynに移住した孤独な主人公Nathanは、親族らとの繋がりを再生しつつ、宣告された余命1年というスペースを埋めるべく、“The Book of Human Folly”という市井の人々の小さな愚行を記録し始める。愛情を込めて “follies”を記すこの身振りは、「アメリカ」という大きな物語をグローバルに注入することの空疎さを逆説的に炙り出しているという意味において、アメリカの“folly”へのカウンターナラティヴとなっている。

アメリカが発する言説の陥穽を暗示しているのが、愚行の一つとして描かれる少女Lucyによるガソリンタンクへのコーク注入事件である。アメリカが“Things go better with Coke”というキャッチフレーズを掲げて普及させたコークは、砂糖のせいで車のエンジンに致命傷を及ぼす。これは、アメリカが自らの言説の “fallacy”に気づかぬまま世界に注入する砂糖のように甘い「普遍的」言説が、国内のみならずグローバルな「エンジン」を麻痺させ、その“folly”の代償として9.11のテロを招いたことを暗示している。その一方で、このコーク事件が、NathanたちのBrooklynの擬似家族的コミュニティー再構築の契機になっている点を鑑みれば、世界を席巻するコークに表象されるアメリカニズムの欺瞞性が、コークそれ自体によって炙り出されているという解釈も成り立つ。

広大な「空隙」を埋めることは建国以来アメリカに取り憑いたオブセッションであるが、それを行為遂行的な「美徳」の言説とは程遠い、「愚行」の事実確認的なナラティヴを偽装した人情味溢れる人間喜劇の蒐集によって遂行しようとした本作品は、Bush政権の“folly”を逆説的に前景化するAusterのしたたかな戦略的転換を物語っている。


野口 孝之 学習院大学(院)


Don DeLillo(1936- )が1985年に発表した White Noise と2003年に発表したCosmopolis は、共にテクノロジーやメディアに依存した世界における身体性の問題を扱っており、共通する特徴を数多く持っている。例えば、White Noise の語り手Jack Gladneyは死に関して強い恐怖感を抱いているが、それと同じように Cosmopolis の中心人物Eric Packerは自らの健康を気にしておりGladneyほど明確ではないにしても死を恐れている。また作品の展開においても、Gladneyは有毒化学物質をその身に浴びることにより、Ericは脅迫を受けることにより、作品の中盤以降から死が身近に迫ってくるという同じような流れとなっている。こうした共通点から、これら二つの作品は対になっているといえよう。

死に対して恐れを抱く二人は、それぞれのやり方でそうした恐怖に対応している。Gladneyは、Hitler学科を始めとする自らを取り巻くシステムに依存し、己をその一部とすることで安心感を得ていた。Ericは、旧いものを遠ざけハイテク機器のような最新のものを周りにおくことで危険から身を守っていた。こうした彼らの死の恐怖に対する防衛手段は、作品前半においては機能しているが中盤以降に死が迫ってくることで綻びが生じてくる。

それまで効果があった対応策が通じなくなると、二人の反応はそれまでと異なり決定的に違ったものになっていく。Gladneyは死の恐怖を取り除く薬Dylarを求めるようになるのだが、その薬の効果とは己をシステムの完全な一部とし死の恐怖を忘れさせるというものである。最終的に彼はDylarを服用することはしないが、Gladneyのこの行動は彼が死を遠ざけようとしていることを意味している。そのため、Gladneyは死から逃げる男だといえよう。それに対し、Ericは死から逃げるどころか自らの身体に痛みを与え、率先して危険な場所へと近づいていく。彼のこの行動は、自分から死に接近することで生の実感を取り戻そうというものである。このことから、EricはGladneyと対照的に死へと向かう男だといえる。

迫りくる死との関わり方の違いは、二人を全く異なる方向へと導いていく。Gladneyは最終章で自らを安心させるスーパーマーケットで買い物をする習慣を続けており、そこには作品を通して彼が決定的に変化したという徴候はみられない。一方、Ericは死へと近づくことで、生の実感をある程度取り戻すことができ、作品冒頭で眠ることができなかった彼は、作品終盤での床屋で眠りを取り戻すという大きな変化を経験する。こうしたことから、White Noise は変化することない世界を描いた作品であり、Cosmopolis は変化する世界を描いた作品だといえよう。本発表では、White Noiseで変わらない世界を描いていたDeLilloが何故 Cosmopolis で変化する世界を描くに至ったのか、DeLilloの意識の変化を考察していきたい。


永野 良博 上智短期大学


Underworld (1997)では1951年を起点とし、ほぼ半世紀に亘るアメリカ冷戦期の国家再編成の様子が、ソビエトとの対立を軸とした大きな物語と、国内に散らばった登場人物の様々な物語を通して描かれてゆく。ソビエトによる核実験、キューバ・ミサイル危機、ベトナム戦争のような大規模な歴史的危機が国家の大きな物語の中心を占めるが、アメリカの抱く地政学上のシナリオ、そして高度な軍事テクノロジー発展の莫大さと複雑さは、多くの登場人物の理解力を圧倒する。情報の欠如、認識力における限界のため、彼らは自らの国家と敵国の活動について、無数のそして互いに連結し合う空想的物語を作り上げてゆく。国家間の陰謀、爆弾、ミサイル、そして核による攻撃の可能性に関する空想は、自分達を取り巻く世界で起きる出来事を理解しようとする彼らの試みの産物である。そのような空想は彼らが抱く脅威により増幅された誇大妄想的な想像力に強く影響されているが、それらを非科学的及び幻想的な歴史物語として拒絶することは出来ない。批評家Patrick O’DonnellがUnderworld に関する論考の中で「まさにUnderworld においてはunderhistoryこそ唯一の歴史である」と述べる時、彼はしばしば妄想へと傾く空想に根差した、非公式の歴史物語を肯定していると思われる。

ここで考えてみたいのは、登場人物達が提示する無数の空想を通して描かれる冷戦期のアメリカ社会において、彼らの理解する「現実性」とはどのようなものであり、何がそれを支えているのかという問題である。DeLillo作品の研究において現実性という問題の探求は、中心的な課題の一つである。非公式な歴史の現実性の問題と共に、メディアの作り出す映像の持つ超現実性や、交換可能で使い捨ての一種幻想的な特質を持つ商品が溢れる消費社会と、それらに規定される個人の生活の非現実性などが扱われてきた。本発表において主眼が置かれているのは、空想とイデオロギーの結合が、いかなる方法で現実性そして非現実性を形成してゆくかという問題である。そして冷戦期の戦争国家が発展させる高度なテクノロジー、共産国との対立が孕む複雑な地政学的及び軍事的シナリオに関して、登場人物達が想像力を働かせた時、彼らを苛むことになる人生そして社会に浸透する非現実的な現実という感覚に注目する。Underworld では複数の個人の空想はお互いに絡み合い、さらにそれらは大きな国家の空想と絡み合う。連結された空想を検証し、不安に支配された精神的混乱へと入り込み分析し、彼らの抱く現実性、非現実性という意識を形成する要素を探ってゆきたい。そのような目的を果たすために論じたい事柄は、イデオロギー作用に支配された空想の産物としての現実、高度な軍事テクノロジーが持つ歪んだ崇高美、そして都市部の周辺に押しやられた他者の姿が提起するアメリカ社会の抱える矛盾などである。そうした文脈の中で、何人かの登場人物が提示する現実性の個々の形態を探ってゆくつもりである。