1. 第6室(1号館4階 146教室)

第6室(1号館4階 146教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
 

1.セッションなし

利根川真紀

2.Toni Morrisonの Sula ――プラトンから読み解くSulaの成長

  奥野みち子 : 大阪市立大学(院)

森 あおい

3.エスニック・モダニズムとToni Morrisonの Jazz

  深瀬有希子 : 東京理科大学

4.Toni Morrison, Paradise における人種、歴史、共同体

  宮本 敬子 : 西南学院大学



奥野みち子 大阪市立大学(院)


Sula (1973)はプラトンの『饗宴』、『パイドロス』、『ソクラテスの弁明』、『クリトン』、『パイドン』、オウィディウス『変身物語』、陶淵明『桃花源記』を下敷きにしていると主張すれば突飛だと思われるかも知れない。しかし、難解とされる Sula はそのアイデア、プロット、背景のかなりの部分が上記古典からの借用 / 応用だと看做せば、理解しやすくなるのである。また、Sula は断片的挿話の集成で統一性に欠け、主人公Sulaには成長が見られないとする指摘が少なくない。しかし、上記古典を参照すれば、Sula は輪廻というテーマで内面的統一が図られているのが分かり、Sulaの成長はプラトンを参照すれば理解しやすい。本発表では、Sulaの成長とその意味を、プラトンを参照することで読み取る。

さて、Sulaの成長がわかりにくいのは、彼女は『饗宴』にあるディオティマ(ソクラテスの代弁者)のエロス説 ―― 知恵の愛を育てた者は不死の特権を賦与される ―― に準拠した段階的成長を遂げるからである。この段階的成長を読み取るには、Sulaの人生をプラトンの諸作品を参照しながら見る必要がある。特に、プラトンが Sula の下敷きであると判断しやすい箇所は、12歳のSulaとNelが草遊びを始める前の情景である。この情景は、『パイドロス』の冒頭にある平和な情景の借用と推察できる。『パイドロス』のテーマには男の同性愛があるが、SulaとNelが草遊びをする描写には、二人が性的に魅かれ合う気持ちが暗示されているとする指摘がある。草遊びの後に、Sulaが誤ってChicken Littleを川に放り投げて溺死させるのは、『パイドロス』のなかでソクラテスが語るギリシア神話にある、少女が風に吹き飛ばされて死ぬ物語の応用と言える。Sulaの成長は、『饗宴』との関わりが多い。29歳のSulaは理想的な男Ajaxの肌の下に3種類の美を想像する。これはディオティマのエロス論の核心にある ―― 順序を追って様々なものに美を観てきた人は、その人の成長の最高段階において突然、3つの語句で形容される真の美を心眼で観る ―― ことの応用である。Sulaはまた、『ソクラテスの弁明』、『クリトン』で描かれるソクラテスにも似せられ、さらにSulaの死は、『パイドン』からも説明できる。プラトンは『饗宴』においてソクラテスを神話化する傾向があるが、Morrisonは結末でSulaを木に変身させ、神話化することで、Sula をアメリカ黒人神話に仕立て上げている。

このようにMorrison が古典を下敷きに Sula を創作したのは、大学で古典学を副専攻したことも関係していると思われる。また、Morrisonは、古い芸術様式及びそこにあるアイデアと状況を元の意味を変えずに、作品に生かしていると語っている。この発言は、Sula は古典を下敷きにしているとする私の主張を補強するものだと言える。


深瀬有希子 東京理科大学


Toni Morrisonの Jazz (1992)の語り手は、人種・ジェンダーが曖昧であるのみならず、自身の語りの信憑性をメタフィクショナルに省みるものとしてしばしば論じられてきた。例えば、語り手を黒人女性と見なす論考は、彼女が白人としてパッシングする混血児Golden Grayを批判する様子に、語り手の人種・ジェンダーがもたらす「限界」を見る。あるいは他の読解では、語り手に決定不能という性質が与えられる場合もあれば、語り手は本それ自体であったり、音楽と考えられたりもする。本発表では、このように様々に解釈される語り手に新たなアイデンティティを断定するよりもむしろ、語りにおける客観性の欠如への反省が本小説の舞台である1920年代ニューヨークを描く際の一形式になっているのではないか、という点を論じてみたい。

そこでまず始めに、語り手が元奴隷の黒人女性True Belleの人生を語る様子を取りあげる。小説冒頭で、語り手はハーレムのことなら何でも知っていると豪語する。のちにこの語り手が己の過信や抑制の欠如を嘆く点は、たびたび指摘されてきた。しかし、混血児Golden Grayを育てたTrue Belleを語るとなると、語り手が 「おそらく」という言葉を繰り返し、他の場面で見せた大胆さを示さずにいる点については詳しく議論されていない。ハーレムの物語の中にTrue Belleの奴隷体験記を組み込むときに生じるこのような語り口の変化は、本小説が黒人奴隷体験記の一形式を踏まえながら、1920年代の北部都市で南部奴隷制について語る意義を示していると考えられるだろう。

次に注目するのは、Jazz の語り手がハーレムの住民をいかに捉えているかという点である。その際、本小説が描く時代・場所でまさに出版されたF. Scott Fitzgeraldの The Great Gatsby (1925)を参照する。登場人物でもあるNickの語り方や、彼が語らない人種民族的他者を考慮に入れることにより、Morrisonの描くニューヨークが、その語り手によって“amiable strangers”と呼ばれる住民がひしめく、Ann Douglasの言葉を借りれば、“mongrel”な場として浮かび上がってくるのではないか。あるいは、Morrisonの語り手が異なる声を聞きとる様子は、Werner Sollors の言う “ethnic modernism”の描出として見なすことができるのではないだろうか。


宮本 敬子 西南学院大学


Edward W. Saidは Freud and the Non-European (2003) において、Sigmund Freudの Moses and Monotheism (1939) に提示された人種アイデンティティの概念に,現在の中東問題に対する解決の手がかりを見いだそうとする。すなわち、ユダヤ教あるいはユダヤ人アイデンティティの創設者ともいえるモーセが、非ヨーロッパ人のエジプト人であったとするFreudの「自らの内的限界を知る暫定的アイデンティティ」というラディカルな概念に、Saidはユダヤ人とパレスチナ人の相互理解の新たな基盤を形成する可能性を示唆している。しかし、Jacqueline Roseは精神分析の立場から、Saidの見解は「アイデンティティの固着性、またアイデンティティが共有するトラウマの問題」に対して、楽観的なものではないかと危惧する。ユダヤ人とパレスチナ人が抱えるトラウマに満ちた歴史を考えるとき、「トラウマに対する歴史的に立証された反応は、それを繰り返すことである」からだ。

Toni Morrison (1931-)の Paradise (1998)も、このようなトラウマ化された歴史によって構築された共同体の問題をテーマとしている。この作品では、奴隷であったアフリカ系アメリカ人のキリスト教信仰にとって、最も重要で原型的な神話である旧約聖書「出エジプト記」に基づく歴史観と共同体アイデンティティをもつ黒人だけの町が、やがて排他的で人種差別的で孤立したものとなり、衰退していく過程が描かれている。Morrisonは、奴隷制度の抑圧から解放された後、黒人だけの理想の共同体を建設しようとするアフリカ系アメリカ版アメリカの夢を批判し、Freud同様、自らの民族的文化的遺産に挑戦しているのである。

本発表では、Paradise において前景化されている男女の二項対立的図式、とりわけ家父長的で保守的な黒人だけの町Rubyと人種的にも階級的にも多様な女性達が集まる修道院との対比を、トラウマ表象のジェンダー化という観点から考察する。ホロコースト文学やスレイブナラティヴに見られるように、トラウマ体験が母性 / 女性表象を呼び起こすことはすでに指摘されているが、Morrisonはそのような母性 / 女性表象に潜む家父長制イデオロギーの再生産をどのように回避しているのだろうか。社会から周縁化された修道院の女性達の自己再生の物語は、抑圧されてきた女性の欲望を取り上げ、家父長制文化によって構築された女性性や異性愛主義のパラダイムに挑戦してきたFemale Gothicの伝統の適用と修正であることを、Joan Copjecの理論を援用することによって明らかにする。さらにトラウマ化された歴史を抱えるRubyの共同体と、修道院にて過去のトラウマ体験から解放され自己再構築する女性達の共同体の分析を通して、Morrisonが、ジェンダー / セクシュアリティを軸として、人種アイデンティティ、歴史、そして共同体の概念を再考する過程を考察したい。