1. 第2室(1号館2階 125教室)

第2室(1号館2階 125教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
倉橋 洋子

1.“Rappaccini’s Daughter”におけるメタモルフォーシスとプロヴィデンス

  中西佳世子 : 京都大学(院)

藤田 佳子

2.奴隷解放運動における思想家Emersonの立場

  小倉いずみ : 大東文化大学

村上 清敏

3.The Awakening における “Nature”の意味

  西田 智子 : 九州産業大学

4.喪失とレジスタンスの語り――ソローのエコトピアからホーガンのエコカルチャーへ

  伊藤 詔子 : 松山大学



中西佳世子 京都大学(院)


Nathaniel Hawthorneの短編、“Rappaccini’s Daughter”のRappaccini 博士は「蒸留器の中で彼自身の心を蒸留(distill)してしまったほどの真の科学者」だとライバルの科学者Baglioni教授は表現するが、この作品では、「蒸留する(distill)」、「圧縮する(compress)」といった人為的に密度を高める行為を示す語、あるいは「集中した(intent)」、「過剰な(redundant)」といった密度の濃さを示す語、そして「燦爛たる(brilliant)」、「鮮烈な(vivid)」といった強烈な光を示唆する語が多用される。一方、孤島に住む魔術師Prosperoとその娘Mirandaという“Rappaccini’s Daughter”と類似したセッティングおよび人物関係の設定を持つShakespeareのThe Tempest では、Prosperoが魔法を解く場面で、「拡散する(dissolve)」、「溶ける(melt)」、「消えていく(fade)」といった語が用いられるが、これらの語は変容(metamorphosis)の隠喩を持ち、主題と結びついて劇の変化の方向を示すことが指摘されている。“Rappaccini’s Daughter”ではThe Tempest の場合とは逆に、人為的に濃度を高めることを示す語、人為的過剰さを示す語の多用によって、物語が反自然的変化の方向に進行していることが示されているといえる。

G.R.Elliottは、Prosperoが魔術を解く意志を示す場面は、直後に言及される“immortal Providence”の概念導入への準備であると指摘している。すなわち、自然を人為的に操作する魔術を放棄する行為は、人智を超越する「神の摂理(Providence)」への回帰であり、その変容の方向を示唆するのが「拡散する」、「溶ける」、「消えていく」という言葉だといえる。一方、Hawthorneは、The Blithedale Romance において、バランスを欠いた熱狂的社会改革者の心を「荒々しく搾り出され、不自然な方法で蒸留」されたアルコールに喩え、入水したZenobiaとHamlet のOpheliaのイメージを重ね合わせて、共同体の営みが自然のプロセス(Providence)に反することを描いている。Hawthorneにとって「蒸留」のイメージは、それを通して「神の摂理(Providence)」に反する過剰な人為性を表象させることのできる装置であり、“Rappaccini’s Daughter” においてもその機能を果たしているといえる。

本発表では、「蒸留する」というRappaccini博士の実験行為を示す語が、彼の科学至上主義という精神の偏向を示すだけでなく、世俗的な科学者Baglioniと未熟な青年Giovanniの心に巣くう嫉妬や不安が徐々に凝縮されて、Beatriceを心身ともに死に追いやる毒を生み出すプロセスにも反映されていることを論証する。そして、これらの、神と自然に反する変容(metamorphosis)のプロセスが、Hawthorne作品全般にわたって頻繁に導入される、作家の「神の摂理(Providence)」概念と深くかかわることを、The Blithedale Romance, “Earth’s Holocaust,” “The Old Manse,” Macbeth, The Tempest 等を援用して考察したい。


小倉いずみ 大東文化大学


Emersonは代表作Nature (1836)や “The American Scholar” (1837)、 “The Divinity School Address” (1838)が出版された1830年代に研究の軸が置かれる傾向があり、哲学者としてのイメージが強く、奴隷解放については積極的な発言をしていないと非難されてきた。Emersonの伝記を書いたOliver Wendell Holmesをはじめ、歴史家のGeorge M. Fredricksonや文学者のAnne C. Roseは、Emersonは個人主義を重視するあまり、政治と距離を置いて冷めたところがあり、思想自体は抽象的であったと述べている。

Len Gougeon のVirtue’s Hero (1990) は消極的な解釈を修正し、彼とJoel Myersonが編集したEmerson’s Antislavery Writings (1995)は、Emersonが奴隷解放について多くの講演をしたことを証明している。本発表はGougeonの編著に加えてThe Journals and Miscellaneous Notebooks of Ralph Waldo Emerson (JMN)をもとに、1840年代以降のEmersonの黒人奴隷制とのかかわりをたどり、個人主義や自己信頼を柱としたEmersonの思想と、奴隷解放という政治運動や連邦政府という大きな組織の維持が、彼の心の中でどのように融合しえたのかを探ってみたい。

1844年に行われた講演“Address on the Anniversary of Emancipation of Negroes in the British West Indies”では、英国領西インド諸島の奴隷解放までの歴史を詳細に述べ、アメリカにおける奴隷制という犯罪を黙認してはならないと主張する。「1850年の妥協」に含まれた逃亡奴隷法については、翌年Emersonは講演“The Fugitive Slave Law: Address to Citizens of Concord”を行うが、法案を支持したDaniel Websterを名指して “treachery” (W, 11:181)と呼んでいる。

1850年代前半のEmersonの講演では、政治とのかかわりに関して逡巡が見られるが、1850年代以降のJMNでは、政治家や連邦最高裁判所、憲法や独立宣言などの言葉が頻出する。奴隷解放運動に関してはNotebook WO Liberty (JMN, 14: 373-430)、南北戦争に関してはJournal War (JMN, 15: 169-233) に多くの記述が見られる。講演が怒号で中断されてもEmersonは続け、最高裁判例のDred Scott v. Sandford (1857) に対してはRoger Taney長官の法廷意見を詳細に読んでいることがうかがえる。

1860年にLincolnが大統領選挙に勝利したことを、Emersonは“the pronunciation of the masses of America against Slavery” (JMN, 14: 363)であると記している。Emersonは1862年にLincolnに面会するが、その人格に感銘を受けつつも、奴隷解放宣言が出されないことを不満に思う。また南部同盟が英仏からの国家承認を得ようとする動きに憂慮して、JMNに緊急事態を記すなど、Emersonと政治の関係が深まっていることがわかる。本発表では当時講演を通して世論に影響力を持っていた思想家Emersonが、いかに奴隷解放という政治運動にかかわったのかを探ってみたい。


西田 智子 九州産業大学


Kate ChopinのThe Awakening (1899)において、物語のヒロインであるEdna Pontellierは、二人の子供の母としての役割を担い、クレオールの夫に完全に庇護された生活を送る主婦として登場する。彼女の人生は、偶然による結婚や、たびたび訪れる“Fate”によって操られ決定されてきた。また、彼女が出産を経て母となり家庭生活の中に埋没することも、逆に家庭や社会が求める役割や閉鎖的な環境から解放されて一人の女性として欲望のままに自由に生きたいと願うことも、人間の力を超えた“Nature”の力によるものとされる。この場合の“Nature”とは、自然の風景というよりは、理性によって制御することが不可能な、人間の宿命的な本能や感情を表すと考えられる。“Nature”は擬人化され、人間の意思に反してその人生に影響を及ぼす存在として表現されるのである。“Nature”に左右されるEdnaは、弱く自己中心的な印象を備えることになり、例えばC. L. DeyoはEdnaを、“weakly, passively, vainly, offended”といった言葉で批評している。Ednaは確かに気分に流され抑鬱状態に陥りやすく、彼女が求める生き方もあいまいに表現される場合が多い。しかし物語の中でEdnaを理解しようとするDoctor Mandeletが強調するのは、彼女のような人間の弱さではなく、むしろ人間の幸、不幸におかまいなく、その人生に不可避的な影響を与える“Nature”という要素の残酷さである。そこで本発表では人間の理性を凌いでその人生を左右するという、この作品における“Nature”の意味について論じてみたい。

自分の本能的な欲求に目覚めつつあるEdnaは、Emersonの著作を読む。Ralph Waldo Emersonの実際の作品の一つであるNature (1836)においては、人間が学ぶべき教訓を無限に内包する自然の偉大さが描かれる。Emersonが表現するNatureとは、人間の本能というよりは森羅万象の世界そのものと考えられるが、EdnaはまさにGrand Isleの自然の中で、彼女の五感を通して自分にとって“essential”な生き方と人生の指針を感受していると考えられるのである。そこでEmersonの自然論と比較することで、Ednaの感性を刺激する、この物語に描かれる風景の意味も引き立つのである。

“Nature”に導かれ、内在的な本能と外在的な自然から、Ednaが五感を通して感受したことは、社会的存在ではない自我と、人間の本質としての孤独の意味である。Emersonは、人間が孤独になって自然と対峙することで自然が与えてくれる啓示を感受できると考えるが、Ednaは社会的存在としての自己の装いを脱ぎ捨て、自然そのもの(海)の中に同化していくことで、人間にとって“essential”な孤独の尊厳を守ろうとする。また、理論や理屈ではなく、五感による経験を通して刺激されたEdnaの感性こそが彼女に人間の本質の意味を教えているという現実は、まだ自立や自由な生き方の追求といった問題に対して自らの意見を語るすべや社会通念を備えていなかった当時のアメリカ社会における家庭の女性たちの状況を象徴すると考えられる点についても検証していきたい。


伊藤 詔子 松山大学


“Economy”の高名な謎の一節(”I long ago lost a hound, a bay horse, and a turtle dove, and am still on their trail.”)は、Barbara Johnsonが言うように、「特定の喪失でなく喪失感覚そのものを表現している」とすれば、それが生きもの表象と結合していることが重要だと思われる。1857年4月の手紙でこの一行への質問に「私は今も喪失の危険の中にいます」とも答えている。実人生で多くの肉親の死に見舞われたソローの喪失感は、生態系の危機の感覚とも並行していき、メインへの旅を46年、53年、57年と繰り返す。それは真の野生発見とともに、「この国の森をなくすことが林業の使命」(The Maine Woods )であることを思い知る旅ともなる。またジョー・ポリスというプネブスコット・インディアンを通して、白人へと変質しつつある先住民の現実認識を迫られ、観念的でロマンティックな「インディアン」観から脱する旅でもあった。ポリスは部族の代表を務めるとともに、教会に行きサバスを守り二階建ての瀟洒な白い家に住むいわば<白い赤人>であった。

一方チカソー族の出身でハイブリッドであるLinda Hogan (1947-)は、部族の伝統の語り部というより、Jim Tartarの指摘するように、複数の文化伝統の融合(multiethnicity)に特質があり、白人の知恵と「インディアン」の野生の融合を目指すソローのハイブリディティに通底するものがある。ホーガンは失われたミンブレス部族の「命の抜け穴」の連想で「すでに世界には、いくつも穴があいてしまった。(中略)どうしてこんな喪失を許したのか」(Dwellings )と、世界の取り返しのつかない喪失についても語る。両者は、地球が「様々な種子を時が来るまで蓄える穀物倉庫」(Thoreau, Wild Fruits )とし、「大きな一つの種子で、生命を宿し次の細胞分裂を待つ卵」(Hogan, Solar Storms )とみなす地球的、身体的想像力により、喪失を引き起こした現場に立ち、その歴史を物語る。

さらにホーガンにはソローと同様「ウォーキング」(”Walking,” 1995)と題する作品があり、歩くことに特別な表象性を託している。ただしソローの”Walking”(1862)はウィルダネスとしての自由の宣言となったが、その歩みは家族、コンコード、アメリカからも離れ、純粋自然の領域とも言うべき楽園探求の脱歴史化の歩みでもあったのに対し、ホーガンの場合歩くのは作者のペルソナとしての向日葵(sunflower)であり、過酷な旅を生き抜いて家郷へとたどり着き、ついに定着し永続的な住処を得る。ここにはネイティヴ・アメリカンの、放浪を余儀なくされた後の再定住(reinhabitation)の思想(「植民地文化世代の、過去の搾取で崩壊した地域の場所を再興し再び住むこと」)が読み込める。両者の歩みの方向は、歴史に関する限り逆方向であり、ソローは歴史から脱し幻想に入り、ホーガンは幻想から歴史の中に入っていくといえる。

こうしたソローとホーガンの類似性と異質性は、両者の目指すコミュニティの質の違いとして論じうるかもしれない。ソローは、アメリカ・ユートピアニズムの共同体実験の「黄金時代」1840年代に生きたが、ブルック・ファームなど共同体的ユートピアには徹底して批判的で、単独のエコロジー的コミュニティ、エコトピアを構想した。「経済」を締めくくる一節は「もしわれわれが真にインディアン的、植物的、磁力的あるいは自然的な手段(Natural means)で人類を立派に蘇生させようと思うなら、まず我々自身が自然そのものに」なる必要があるとし、自然力が社会と人間を救うとした。

『太陽嵐』も崩壊を体験した親たちの第三世代である一七歳の主人公Angelが、Adam’s Ribという象徴的な名前を持つ土地に、女性たちの連帯で生き抜き再定住する物語である。語り手はクーリーとイヌイットの混血として生まれ、母代わりのチカソー出身のブッシュや、祖母代わりのドラ・ルージュの配慮により生き延び、自己救済の過程にはいっていく。タイトルは、トラウマが磁気異変のもたらした宇宙的ともいえる病を引き起こすことを意味するが、ホーガンはその癒しを多文化的なコミュニティから汲みだし、エコカルチャーを育み、さらに環境正義のテーマへと社会化し”The only possibility of survival has been resistance.”とレジスタンスの語りへと発展させる。「エコカルチャー」は、人種や部族の違いを超えて普遍的に作者が提示しているものである。