1. 地球という舞台での、アメリカ

地球という舞台での、アメリカ

劇作家 坂手 洋二


舞台は、閉じた空間である。地球という惑星もまた、閉じている。

演劇表現の本質は、舞台という限定空間とどのように向き合うかという作業過程そのものにある。

地球の中にも、様々な国があり、大陸や島々がある。だが、誰かがエリアによって分別し、名前を付けたとしても、決して本質的に区切ることができないものがある。それは、海である。海は、必ずどこかで繋がっている。地球という「惑星」の持つ、緩やかな、実態のなさそのもの。思想と感受性の自由。その象徴としての、海。

グローバリゼーションは、人と人、共同体と共同体、それぞれが「繋がっていくこと」じたいに肯定的である。その根拠には、情報資本主義下の民主主義があり、繋がる以前の個人あるいは共同体が、独立した存在として保障されているべきだという原則がある。地球は一つ、国家は一つ、という同一性の強制は帝国主義的であり、ヒューマニズムの視点に立てば、あくまでも人間社会は個人の集積であるほうが正しいという観念が、緩やかに共有されている。

しかし、海のような、一つであるにもかかわらず、全体をフォローできる概念を、私たちは持ち得ているだろうか。エコロジーの問題以前に、例えば、世界中の海を回遊し、自分の場として認識できているクジラの世界に、近づくことができるだろうか。

東西対立のあいまいな融解の後、世界は、社会主義と資本主義の相克の隙間に見えていた、民族、宗教、経済格差の対立が一気に噴出してくる現実に、耐えねばならなくなった。

おそらくアメリカは、初めて国家を「フィクション」として認め、あえてそこに所属するという手続きを、自覚的に行った国である。『白鯨』がアメリカ人たちの精神世界を支えるバイブルであるのは、自分たちの国家の航海の過程が、海を我がものとするクジラに拮抗するものでありたいという願望の表れであろう。

私がやってきた表現は、そうしたアメリカの存在を意識せざるを得ないものが多かった。

「戦争」「対立」というネガティブな観点こそが世界を繋いでしまう現実を意識した、『だるまさんがころんだ』『ワールド・トレード・センター』『私たちの戦争』『屋根裏』。

アメリカと日本の関係そのものを描くものとして、GHQ占領下の日本と現在を通底させた『天皇と接吻』、米軍基地でのジャズを描いた『青空のある限り』。

米軍基地の存在と切り離せない沖縄を描いたものとして、『海の沸点』『沖縄ミルクプラントの最后』『ピカドン・キジムナー』、沖縄闘争にまつわる獄中結婚を描いた『ブラインド・タッチ』がある。

十九世紀のアメリカ・シンシナティを描いた『小泉八雲劇場 皮革製造所殺人事件』。アメリカの現実を描いた様々な翻訳上演『ときはなたれて』『ツー・ポイント・ファイヴ・ミニット・ライド』『ララミー・プロジェクト』。合作であり、アメリカがイニシアチブを取る航空界を背景にした『CVR』。さらに、イギリスのデビッド・ヘア作だが、ブッシュを主人公にした国際政治風刺劇『スタッフ・ハプンズ』がある。

そして、クジラへの関心から生まれた諸作、『くじらの墓標』『南洋くじら部隊』『白鯨』がある。

地球という舞台でのアメリカとの向き合い方について考察したい。