1. 3.Angels in Americaにおける信仰と救済――T.S.EliotとEmmanuel Levinasを手がかりに

3.Angels in Americaにおける信仰と救済――T.S.EliotとEmmanuel Levinasを手がかりに

日比野 啓 成蹊大学


The Waste Land(1922)において、救済はたんに待ち望まれるものだけではなく、自己変革をうながす、厭悪すべきものとしてもとらえられる。さまざまな文学作品の引用の織物でもある Tony Kushner の Angels in America: A Gay Fantasia on National Themes (Part 1: 1991, Part 2: 1992) は、『荒地』に示された救済にたいする ambivalent な感情を持ち込むことで、ユダヤ系ゲイ作家が紡ぎ出す(多分にキリスト教的な)救済をめぐる物語というただでさえ複雑なイメージの絡まり合いをいっそうこんがらがらせる。おそらくそれもあって、Angels in Americaにおける信仰と救済の問題は正面切って論じられることは少なかった。本発表では、これまでしばしば議論されてきた問題系(クイア/越境、国家と文学、AIDSと身体表象など)になるべく頼らずに、この作品における信仰と救済の意味を考えてみたい。Don Shewey のように、この作品を “divine comedy” と呼んでみたり、あるいは(結局同じことだが)この作品における信仰はキャンプ感覚の横溢するまがい物でしかないとみたりすることで、救済についての Kushner の真剣さを過小評価してはならない、というのが発表者の基本的な姿勢である。T. S. Eliot が目のあたりにした第一次世界大戦後の社会の荒廃と、Kushner が体験した80年代レーガン政権時代におけるAIDSの流行とゲイ・バッシングという状況とを重ね合わせて考えれば、信仰なき時代の宗教が形骸化してもなお作家の想像力に刺激を与えること、そして作家の中で生き直されることで信仰が新たな意味を獲得することはすぐにわかることだろう。さらにこの作品では、不合理さゆえの宗教の魅力も描かれている。「天使と戦うヤコブ」の挿話をめぐって交わされる Joe と Harper のやりとりは、平等の価値を信じて疑わない典型的な現代アメリカ人による頓珍漢な旧約聖書解釈を示しているだけではない。信仰の理不尽さに気づくことは「不合理なるが故にわれ信ず」(テルツリアヌス)までほんの一歩である。そう考えると、映画 Munich の脚本にたずさわり、世俗派ユダヤ系アメリカ人として、監督の Steven Spielberg とともにイスラエルをやんわり批判した Kushner であっても、エリオットが英国国教会に帰依したように、あるいは Eugene O’Neill がカトリックに改宗したように、将来ユダヤ教正統派に回帰することがないとはいえないのではないか。そこまでは言わなくても、他者の救済はいかにしてなされるべきか、というキリスト教からユダヤ教につきつけられた問いを、 や Derridaが鮮やかに答えたのと同様の意義をこの作品に見いだすことは不可能ではなかろう。文学研究者が、にわか宗教学者になる愚、借りてきた哲学の知識を振りかざす滑稽さは承知の上で、これらの問題に発表者なりの解答を導き出したい。