1. 2.アメリカン・ラッダイトと西部表象――Against the Dayを中心に後期Pynchon文学を読む

2.アメリカン・ラッダイトと西部表象――Against the Dayを中心に後期Pynchon文学を読む

波戸岡景太 明治大学


“荒地は人間を必要としないが、人間の自由に荒地は必要である”。The Monkey Wrench Gang (1976)の作者Edward Abbeyの言葉が示唆するように、アメリカン・ラッダイトはときにアメリカ西部のウィルダネスを必要としてきた。かつてバイロン卿により独立革命と結び付けられたラッダイト運動は、やがて鉄道、ハイウェイ、ダムなどの敷設により失われていく〈西部〉のイメージを背景に、カリフォルニア化していくアメリカ合衆国そのものへの抵抗運動に姿をかえた。Henry David Thoreauのウォールデンをシエラ・ネヴァダの自然に置き換えたJohn Muir以来の、アメリカ西部のランドスケープを念頭に展開されてきたアメリカン・ラッダイトの伝統を踏まえるとき(Nicols Fox, Against the Machine (2002)等)、その独自性を文学実践として言語化しつつ再定義を試みてきたThomas Pynchonが、新作Against the Day(2006)においてその主要舞台を19世紀後半のコロラドに設定したことは注目に値する。

同作品は従来のPynchon作品同様、多種多様な登場人物の軌跡が複雑なプロットの上に描かれているのだが、アメリカン・ラッダイトという主題を考えるとき、それはコロラドの鉱山町にはじまり、メキシコ、そして第一次大戦に揺れるヨーロッパからユーラシア大陸の奥地まで、大資本家Scarsdale Vibeを父親の仇として追いかけるTraverse家の物語であると、とりあえずは考えることが可能だろう。Traverse家は、1990年に発表されたVinelandの主役であるZoydの元妻、Frenesiの母方の家系にあたる。19世紀末から1980年代のレーガン政権下のアメリカに至るまで、〈反体制〉のひとことだけでは決してまとめきれないこの血筋は、Traverse家の家長Webb Traverseが爆弾魔Kieselguhr Kidであるという作者の示唆によって、Pynchon流のアメリカン・ラッダイトを分析する格好の対象となる。なかでも、Against the Day内で何度となく議論される〈爆弾〉の政治的意味や、鉄道爆破へのこだわりは、Abbeyのラッダイティズムを想起させる。もちろん、Pynchonのそれはアメリカ西部のウィルダネスそれ自体を守るために発動されたものではない。にもかかわらず、本作において、アメリカ西部を拠点として展開されるTraverse家のラッダイティズムは、直接あるいは間接に〈惑星〉全体への危機意識と結び付けられて語られていることを見逃してはならないだろう。

本研究発表では、これまで本格的な研究対象とはされてこなかったPynchonの〈西部〉に焦点をあて、Against the Dayを中心とした後期Pynchon文学の新たな見取り図を提示する。同時に、ラッダイトを一種のアメリカン・ヒーローとして押し上げてきたアメリカ文学・文化史を辿りながら、荒地のアメリカン・ラッダイトというイメージを交点として結びつくポストモダン小説とネイチャーライティングの横断領域を探りながら、現代アメリカ文学におけるPynchonの最定位を試みたい。