1. シンポジアムT(九州支部発題)(2号館2階 U-201教室)

シンポジアムT(九州支部発題)(2号館2階 U-201教室)

惑星思考のアメリカ文学

司会・ 講師
琉球大学 山里 勝己
ゲーリー・スナイダーの『終わりなき山河』――惑星の文学の可能性
講師
西九州大学 渡邉真理子
越境するロード・ナラティヴ
慶應義塾大学 巽  孝之
半球思考のグローバル文学
劇作家 坂手 洋二
地球という舞台での、アメリカ



21世紀は冒頭から9・11以降のテロリズムとそれに反応した戦争があり、一時はメディアが戦争とテロリズムに全面的に占領されたかのような印象さえあった。しかし、地球温暖化が喫緊の課題としてさまざまな国際会議のアジェンダにのるようになり、アル・ゴア氏と「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」が2007年のノーベル平和賞を受賞した後では、21世紀を生きる者は地球規模の政治的、社会的、文化的動揺だけでなく、地球という惑星の「身体」をも直視せざるを得なくなってきた。われわれの意識に、「21世紀的」としか言いようのない、複雑きわまる「惑星の影」が差し込んできたのである。

アメリカ文学はこのような動きをどのように受け止め、文学研究はどのような新しいパースペクティヴを生み出しつつあるのだろうか。たとえば、アメリカ合衆国内の地理的、時間的枠組の中で論じられてきた奴隷制度を惑星的な枠組みの中で考えた場合にどうなるか。ワイ・チー・ディモクは、Philip CurtinのThe Rise and Fall of the Plantation Complex (1990)を援用しながら、奴隷制度を理解するには、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカの5大陸にわたる交易ネットワーク、1300年に及ぶ歴史の深み、そして砂糖の発見がヨーロッパ社会と文化にもたらした変容を理解する必要があると指摘する。奴隷制度を維持するプランテーションをアメリカ史の文脈だけで理解すると全体が見えない。すなわち、アメリカの奴隷制度は、地球全体をカバーするシステムの一部でしかないというのである。

このようなパースペクティヴの基礎になっているものは“transnational”や“postnational”、あるいは“planetarity”という概念である。“Planetarity”(「惑星思考」は、ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクが『ある学問の死』(Death of a Discipline. New York: Columbia UP, 2003)で提唱した概念であり、今日のシンポジウムの前提となった。その前には、おそらくスピヴァクの思考に潜在的な影響を及ぼしている、惑星の深い時間と広がりを見すえたゲーリー・スナイダーの仕事があるだろう。

「プラネタリティ」という概念は、「グローバリゼーション」と同様の世界的枠組みを有するように見える。しかし、「グローバリゼーション」が高度資本主義のもたらす現象であり、金融と情報を中心としたネットワークが世界に均衡をもたらすような幻想を与え、この概念の核にあるものが国民国家、国境、民族主義、国民国家間の紛争、企業の「世界的な」経済活動であるとするならば、これに対して、「プラネタリティ」は、ポストコロニアルやマルティカルチュラルなパースペクティヴが、惑星としての地球のありようを模索する深い想像力と融合する中で生成されつつある思考の枠組であると考えてもいいだろう。

世界の中心としての「アメリカ」が揺らぎ始め、それにともなってアメリカの文学と文学研究の変動が始まっている。国家の枠を越え、惑星の多様な地点・視点や歴史を絡ませながらアメリカ文学を読もうとするとき、これまでと異なる斬新なアメリカ文学像が浮かび上がり、新たな文学研究の枠組みの可能性が見えてくるのではないか。本シンポジウムではこのような視点から議論をしてみたい。フロアからのコメントやご意見をいただきながら、活発な議論が展開できるならば幸いである。


(文責  山里 勝己)



琉球大学 山里 勝己


19世紀アメリカ詩の読者は、ホイットマンが『草の葉』をひっさげて颯爽と登場したとき、そのヴィジョンの広がりと、アメリカ産業革命を背景とした新しい詩語の氾濫に圧倒された。20世紀から21世紀にかけて、アメリカ詩の分野で、地球全体を一つの「場所」として捉えることで新しい人間像と地球像のありようを追求し、ついにはこのような文学的関心が新しい文学的想像力と新しい詩語の創造に到達するものであることを示したのは、おそらくゲーリー・スナイダーが初めてであろう。ホイットマン同様に、スナイダー詩の有するヴィジョンの広がりと、20世紀後半から始まった地球の自然環境の変容を反映する新しい詩語の創造は、地球の文学、あるいは惑星の文学と呼ぶにふさわしい到達点を示している。これは、おそらくは先駆的な「惑星思考」の文学と言うべきものであろう。

スナイダーの初期の詩は、カリフォルニアのシエラネヴァダやアメリカ北西部のウィルダネスから出発する。それから、日本を中心とする東アジア、インド、中近東、オーストラリアなどにその詩の世界が拡大される。10年に及ぶ日本滞在からアメリカに戻ったあとは、生態地域主義などのように、人工的な線でしかない国境を無化し、地球全体のつながりを幻視する思想を深化していく。その際に、スナイダーの思想に強いインパクトを与えたのは、アメリカ先住民神話が見せてくれた「亀の島」という、環太平洋を繋ぐヴィジョンであった。Turtle Island (1974)は、スナイダーの思考に初期から潜在していた深い時間の流れを顕在化し、「アメリカ」の境界を越えて地球のありようを再考しようとする詩集であった。

40年かけて1996年に完成した『終わりなき山河』(Mountains and Rivers without End)は、スナイダーの「惑星思考」を集大成した詩集であると言えるだろう。それは、世界の多くの神話をテクストに組み込みつつ、アメリカという一つの「場所」から出発しながら、究極的には地球という惑星をその主題とする詩学を創造しようとする試みである。また、それは自然環境と人間の関係性という視点を導入することで、地球の文学とでも呼ぶべきスケールを獲得するようになった文学でもある。このような詩をどう読むか、または、このような文学はどのように評価されるべきか、スナイダーの「惑星思考」を分析しながら論じてみたい。


西九州大学 渡邉真理子


G. C. スピヴァクは『ある学問の死――惑星思考の比較文学へ』(2003)のなかで、比較文学と地域研究という二つの学問領域(ディシプリン)の連動を唱え、「境界を横断する」ことに「来るべき学問」としての比較文学の未来を見ているようである。多種学問の「知」の間の「境界」が再画定されている現状は、例えば、モンロー・ドクトリンとトランス=アトランティックなアメリカ文学作品との関係を論じたGretchen MurphyのHemispheric Imaginings: The Monroe Doctrine and Narratives of U.S. Empire (2005) にも認められよう。この書が、「半球」という大陸横断的視点によってナショナル・アイデンティティの問題をより広い地理的文脈のなかで再検討すると同時に、「歴史学」と「文学」という知の枠組をも解体し、横断していることは興味深い。また、現在、アメリカの歴史研究において、西欧中心の視点を批判する形で、移民を歴史的主体とした国民史への必要性が高まっていることも、一国中心主義の歴史ナラティヴからの「越境」への関心を示すものにほかならない。

「惑星思考」を論じる学者の仕事は、概ねこの「境界」の概念から出発する。スピヴァクとの親交でも知られるマサオ・ミヨシによれば、18世紀末に「国民国家」という概念によって「帝国主義と資本主義の副産物」として誕生した文学は、グローバル経済が台頭し国民国家が衰退した今では、すでに「死」を迎えているという。こうして「超学問領域」としての環境学に移行した彼の「惑星主義」は、「国民国家」という人為的な「境界」に絡んだアイデンティティ・ポリティクスの放棄を宣言する。それでもなお、何らかの形で「文学」にとどまり、その路上で歩みを止めない者たちにとって、Wai Chee Dimock がThrough Other Continents: American Literature Across Deep Time(2006) において示した、「アメリカ文学」を「常に他の地理、言語、文化に入り、また、そこから出ていく」ような、「オープンエンド型で増殖し続ける」「交差した通路の集合体」とみなすパラダイムは、未来を「越境的に」切り開いていく可能性を提示してくれるのではないか。

本発表では、「越境するロード・ナラティヴ」として主に二つの現代アメリカ小説を挙げ、それらを「惑星思考」のパースペクティヴから読む作業を試みたい。ひとつは、南北大陸間の移動を描く「クロスロード・ナラティヴ」に、まさしく「惑星」のメタ・ナラティヴを導入したRussell BanksのContinental Drift (1985)、もうひとつは、両大陸間の時空を越えた「越境」を、捉えがたくも幻想的に表象したSteve EricksonのRubicon Beach(1986)である。


慶應義塾大学 巽  孝之


かつてトマス・ジェファソンは1776年に執筆した「独立宣言」草稿のうちに黒人奴隷制廃止案を盛り込み、時のイギリス国王ジョージ三世が人間性を侵害した悪行のひとつとして、アフリカ原住民を捕囚し「異なる半球での奴隷生活を強いたこと」(carrying them into slavery in another hemisphere)を数えあげた。大陸会議はこの提案を時期尚早と判断し「独立宣言」決定版からは削除したが、にもかかわらずここで表明された「半球思考」は、いまも啓発的である。というのも、それから半世紀ほどを経た1823年には、アメリカ大陸を中心とする西半球が大西洋をはさんだヨーロッパなど東半球の干渉を受けないこと、保護の必要がある以外は他国の植民地化を促進しないことを前提とする孤立主義政策「モンロー・ドクトリン」の雛型が誕生したからだ。この政策は一見ポストコロニアリズムの祖型のようにも見えるが、じつのところ新時代における帝国主義の原型をも兼ねる。こうした発想で、グレッチェン・マーフィのHemispheric Imaginings: The Monroe Doctrine and Narratives of U.S. Empire (Durham: Duke UP, 2005)がリディア・マリア・チャイルドやジェイムズ・フェニモア・クーパーらの深層にモンロー・ドクトリンと共振する政治的無意識を暴き出した考察は鋭い。

このように半球思考を正当化しつつ錯綜させるアメリカ独自の空間戦略を批判するところに、惑星思考の素地がひそむ。かくしてガヤトリ・スピヴァクを批判的に継承するワイ・チー・ディモクのThrough Other Continents: American Literature across Deep Time (Princeton: Princeton UP,2006)は、13世紀のモンゴル人によるバグダッドの古文書破壊とまったく同じことが、21世紀のアメリカ軍によるイラク国立図書館の破壊というかたちで起こっていることに注目し、8世紀もの時の隔たりにもかかわらず一定の因果律を結ぶ「深い時間」“Deep Time”を示してみせた。またゲイリー・オキヒロは最新の研究 Island World: A History of Hawaii and the United States (Berkeley: U of California P, 2008)において、プレートテクトニクス理論の発想から、大陸ならぬ島々から成り立つ海洋中心の考え方を立ち上げている。これらはいずれも「近代的人間」の時空間意識を根底から疑い、「惑星思考」を深めつつ「文学とは何か」を探り直す試みであった。

では半球思考から惑星思考へ及ぶ文学的想像力はいかに発揮されるか。その例証のためにウィリアム・フォークナーが1939年に発表したパニック小説『野生の棕櫚』The Wild Palms とコーマック・マッカーシーが2006年に発表したポスト・アポカリプス小説『ザ・ロード』The Road、シェリー・ジャクソンが2006年に発表したフリークス小説『ハーフ・ライフ』Half-Life を取り上げる。


劇作家 坂手 洋二


舞台は、閉じた空間である。地球という惑星もまた、閉じている。

演劇表現の本質は、舞台という限定空間とどのように向き合うかという作業過程そのものにある。

地球の中にも、様々な国があり、大陸や島々がある。だが、誰かがエリアによって分別し、名前を付けたとしても、決して本質的に区切ることができないものがある。それは、海である。海は、必ずどこかで繋がっている。地球という「惑星」の持つ、緩やかな、実態のなさそのもの。思想と感受性の自由。その象徴としての、海。

グローバリゼーションは、人と人、共同体と共同体、それぞれが「繋がっていくこと」じたいに肯定的である。その根拠には、情報資本主義下の民主主義があり、繋がる以前の個人あるいは共同体が、独立した存在として保障されているべきだという原則がある。地球は一つ、国家は一つ、という同一性の強制は帝国主義的であり、ヒューマニズムの視点に立てば、あくまでも人間社会は個人の集積であるほうが正しいという観念が、緩やかに共有されている。

しかし、海のような、一つであるにもかかわらず、全体をフォローできる概念を、私たちは持ち得ているだろうか。エコロジーの問題以前に、例えば、世界中の海を回遊し、自分の場として認識できているクジラの世界に、近づくことができるだろうか。

東西対立のあいまいな融解の後、世界は、社会主義と資本主義の相克の隙間に見えていた、民族、宗教、経済格差の対立が一気に噴出してくる現実に、耐えねばならなくなった。

おそらくアメリカは、初めて国家を「フィクション」として認め、あえてそこに所属するという手続きを、自覚的に行った国である。『白鯨』がアメリカ人たちの精神世界を支えるバイブルであるのは、自分たちの国家の航海の過程が、海を我がものとするクジラに拮抗するものでありたいという願望の表れであろう。

私がやってきた表現は、そうしたアメリカの存在を意識せざるを得ないものが多かった。

「戦争」「対立」というネガティブな観点こそが世界を繋いでしまう現実を意識した、『だるまさんがころんだ』『ワールド・トレード・センター』『私たちの戦争』『屋根裏』。

アメリカと日本の関係そのものを描くものとして、GHQ占領下の日本と現在を通底させた『天皇と接吻』、米軍基地でのジャズを描いた『青空のある限り』。

米軍基地の存在と切り離せない沖縄を描いたものとして、『海の沸点』『沖縄ミルクプラントの最后』『ピカドン・キジムナー』、沖縄闘争にまつわる獄中結婚を描いた『ブラインド・タッチ』がある。

十九世紀のアメリカ・シンシナティを描いた『小泉八雲劇場 皮革製造所殺人事件』。アメリカの現実を描いた様々な翻訳上演『ときはなたれて』『ツー・ポイント・ファイヴ・ミニット・ライド』『ララミー・プロジェクト』。合作であり、アメリカがイニシアチブを取る航空界を背景にした『CVR』。さらに、イギリスのデビッド・ヘア作だが、ブッシュを主人公にした国際政治風刺劇『スタッフ・ハプンズ』がある。

そして、クジラへの関心から生まれた諸作、『くじらの墓標』『南洋くじら部隊』『白鯨』がある。

地球という舞台でのアメリカとの向き合い方について考察したい。