1. 第9室(1号館4階 I-409教室)

第9室(1号館4階 I-409教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
風呂本惇子

1.Derek Walcottが描く新しいカリブの女性像

  松田智穂子 : 一橋大学(院)

2.Men of the Middle Passage and Middle Passage Men: Transatlantic Slave Trade and Poetic Imagination

  Raphaël Lambert : 筑波大学

山本 秀行

3.Angels in Americaにおける信仰と救済――T.S.EliotとEmmanuel Lévinasを手がかりに

  日比野 啓 : 成蹊大学

 

4.セッションなし



松田智穂子 一橋大学(院)


英語圏カリブのセント・ルシア出身であるノーベル賞受賞作家Derek Walcott (1930-)は詩“Egypt, Tobago” (1979)と戯曲A Branch of the Blue Nile (1983)において、Shakespeareの悲劇Antony and Cleopatra (1606-07)を題材にしている。ただし、クレオパトラの表象は両作品で大きく異なる。前者が年老いたAntonyが作者自身のペルソナとして登場し、恋人については名前すら言及しない。それに対して、後者は、トリニダードの小劇団がシェイクスピアをカリブ風に書き換えた作品を稽古する様子を描く物語であり、クレオパトラ役を演じる黒人女優Sheilaに全編にわたって光が当てられる。シーラは、自分はクレオパトラ役を演じるには肌が黒すぎると悩み、英国流の発音を使うように指示する白人舞台監督とは衝突する。しかしながら、男性の演劇仲間たちがニューヨークやロンドンといった白人中心主義の劇場で失敗するのを尻目に、ついには、第一世界の演技方法にとらわれることなく自分自身のクレオパトラ像を発見する。このような葛藤は、独立後のカリブが、植民地時代の遺産であり、かつカリブ文化にすでに根を下ろしてしまった英語と英文学にどのように対処すべきなのかという問題を提起する。

批評家たちはこれまで、本作品におけるシェイクスピアの影響にだけ注目してきた。本発表では、クレオパトラ役を演じようとするヒロイン・シーラに注目しつつ、独立の機運が高まり始めた第二次大戦後から本作品が上演された1980年代までの英語圏カリブにおける実際の社会的コンテクストを分析する。それにより、シーラがシェイクスピアによるクレオパトラ像ではなく、西洋文化の中で二千年間にわたって他者として書き換えられてきたクレオパトラ表象の系譜に連なることを明らかにする。その上で、シェイクスピア作品に範を取るのではなく、それを越えてカリブの新しい女性像を描こうとする男性作家ウォルコットの試みを示したい。

ウォルコットはエッセイ“Meanings” (1970)において、原始的な演劇形態の中に見いだした「男らしさ」(Virility)をカリブの現代演劇を発展させる上での重要なキーワードとし、それゆえ女性は不要であると唱えた。だが、A Branch of the Blue Nile における新しいクレオパトラ像は、聖母か娼婦かといった蔑視的な類型にはあてはまらない。クレオパトラの記号的変遷を明らかにしたMary Hamerによれば、クレオパトラを時代によって書き換える作業は、女性が男性の社会領域に踏み込み、その定義を問い直すことである。ウォルコットがシーラの物語を通してカリビアン・クレオパトラの誕生を示したこと、およびシーラの職業女優としての活躍を描いたことは、1970年の女性不要論を撤回し、カリブ女性の存在を捉え直したと考えられる。これまでの研究では、ウォルコットは、フェミニストの立場をとるElaine SavoryやBelinda Edmontonから女性蔑視や男性中心主義との評価を受けてきたが、実はカリブにおいて1980年以降に顕著になった女性の社会進出を目の当たりにして、女性にも理解を示すようになったことがこの作品から読み取れるのである。


Raphaël Lambert  筑波大学


Both Robert Hayden and James A. Emanuel are among the very few African American artists to have depicted the harrowing voyage endured by African captives across the Atlantic and toward the new world. Through Hayden’s seminal 1945 “Middle Passage” and Emanuel’s 1999 “The Middle Passage Blues,” this reflection endeavors to explore two very divergent and yet complementary views of the same event. Altogether traumatic and ineffable, the Middle Passage is also the founding component of the African American experience. While Hayden describes it as a “voyage through death/to life upon these shores”―ascribing to it the function of a matrix, Emanuel sees it as a psychological wound initially passed down from one generation to the next and finally transcended and constitutive of an identity both individual and communal.

The study of both works will lead this reflection toward a comparison of history and memory. Hayden’s poem is firmly anchored in history as it openly relies on the legal testimonies, press coverage, and personal accounts surrounding the 1839 slave uprising aboard the slave ship Amistad. Hayden, however, avoids the trap of the one-sided, monotonous historical narrative and offers what scholar Jim Murphy calls “a multi-vocal assemblage of perspectives” (109), mixing both real and imagined voices, first and third-person narrators, black and white viewpoints, involved parties and mere witnesses. It becomes clear, as Hayden’s postmodern epic unfolds, that the trial Hayden is interested in is not the trial of the African Cinque and his fellow mutineers, but that of the slave trade itself as every aspect and participant in the infamous traffic―from the raids of African villages by African dealers, to the European-run coastal factories, to the hold, the interminable crossing, and the barracoons of the new world―are accounted for in a seemingly fragmented but meticulous and exhaustive narrative.


日比野 啓 成蹊大学


The Waste Land(1922)において、救済はたんに待ち望まれるものだけではなく、自己変革をうながす、厭悪すべきものとしてもとらえられる。さまざまな文学作品の引用の織物でもある Tony Kushner の Angels in America: A Gay Fantasia on National Themes (Part 1: 1991, Part 2: 1992) は、『荒地』に示された救済にたいする ambivalent な感情を持ち込むことで、ユダヤ系ゲイ作家が紡ぎ出す(多分にキリスト教的な)救済をめぐる物語というただでさえ複雑なイメージの絡まり合いをいっそうこんがらがらせる。おそらくそれもあって、Angels in Americaにおける信仰と救済の問題は正面切って論じられることは少なかった。本発表では、これまでしばしば議論されてきた問題系(クイア/越境、国家と文学、AIDSと身体表象など)になるべく頼らずに、この作品における信仰と救済の意味を考えてみたい。Don Shewey のように、この作品を “divine comedy” と呼んでみたり、あるいは(結局同じことだが)この作品における信仰はキャンプ感覚の横溢するまがい物でしかないとみたりすることで、救済についての Kushner の真剣さを過小評価してはならない、というのが発表者の基本的な姿勢である。T. S. Eliot が目のあたりにした第一次世界大戦後の社会の荒廃と、Kushner が体験した80年代レーガン政権時代におけるAIDSの流行とゲイ・バッシングという状況とを重ね合わせて考えれば、信仰なき時代の宗教が形骸化してもなお作家の想像力に刺激を与えること、そして作家の中で生き直されることで信仰が新たな意味を獲得することはすぐにわかることだろう。さらにこの作品では、不合理さゆえの宗教の魅力も描かれている。「天使と戦うヤコブ」の挿話をめぐって交わされる Joe と Harper のやりとりは、平等の価値を信じて疑わない典型的な現代アメリカ人による頓珍漢な旧約聖書解釈を示しているだけではない。信仰の理不尽さに気づくことは「不合理なるが故にわれ信ず」(テルツリアヌス)までほんの一歩である。そう考えると、映画 Munich の脚本にたずさわり、世俗派ユダヤ系アメリカ人として、監督の Steven Spielberg とともにイスラエルをやんわり批判した Kushner であっても、エリオットが英国国教会に帰依したように、あるいは Eugene O’Neill がカトリックに改宗したように、将来ユダヤ教正統派に回帰することがないとはいえないのではないか。そこまでは言わなくても、他者の救済はいかにしてなされるべきか、というキリスト教からユダヤ教につきつけられた問いを、 や Derridaが鮮やかに答えたのと同様の意義をこの作品に見いだすことは不可能ではなかろう。文学研究者が、にわか宗教学者になる愚、借りてきた哲学の知識を振りかざす滑稽さは承知の上で、これらの問題に発表者なりの解答を導き出したい。