1. 第8室(1号館4階 I-408教室)

第8室(1号館4階 I-408教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
古賀 哲男

1.故郷を想像/創造する――H. W. Longfellow の Evangeline と19世紀末英語系カナダ詩人たち

  荒木 陽子 : 新居浜工業高等専門学校

2.Henryの「仮面」

  山中 章子 : 獨協大学(非常勤)

藤本 雅樹

3.沈降する鯨、ローウェルの詩的発展とともに

  小林 愛明 : 青山学院大学(非常勤)

4.Gary Snyderと龍泉庵――Ruth Fuller Sasakiとの出会い

  原  成吉 : 獨協大学



荒木 陽子 新居浜工業高等専門学校


本発表は旧仏領アカディアの一部であり、現在世界最大数のアカディア人を抱えるカナダ東海岸、ニュー・ブランズウィック州出身の19世紀末の詩人が故郷を詠う詩、Charles G. D. Robertsの“Tantramar Revisited” (1887)とBliss Carmanの (1893)を、19世紀アメリカの詩人Henry Wadsworth Longfellowにより詠われ、出版当時「アメリカの叙事詩」として歓待された、物語詩Evangeline, A Tale of Acadie(1847)と比較し、前者に表出するEvangeline のイメージを検討する。本考察により、カナダ英語圏のナショナリスト詩人が、アメリカ人が「アメリカ」の一部として詠った「仏領カナダ像」、そして「アメリカ人の創出したカナダ観」をもとに、彼らの故郷である「カナダ像」を創造していたことの問題性を指摘したい。

1755年、英軍とそれを補助したニュー・イングランド軍は、英領となった現在のカナダ沿海州(マリタイムス)に生活していた仏語系住民、アカディア人に強制移住を強いた。Evangelineはこの「アカディア人の追放」を描いたものである。架空のアカディア人主人公Evangelineの「追放」による婚約者Gabrielとの別れ、そしてEvangelineのGabrielを探す長い旅と、異郷フィラデルフィアにおける死期迫るGabrielとの再会を描くこの詩は、合衆国はもとより翻訳を通して世界各国において好評を得た。そして、Longfellowがその土地を見ることなく描いた「虚構」は、彼同様にアカディアを訪れたことのない読者のアカディアに対するイメージの形成に影響を与えた。

しかし、Evangeline が「マリタイム観」形成に与えた影響はそれに止まらない。その詩が、19世紀末の第一次アカディアン・ルネッサンスの中、ケベック人Pamphile Le Mayによる仏語訳を介して、追放先から沿海州に帰還したアカディア人自身のアカディア観の形成に影響したことは良く知られた事実である。加えて、本発表は、Evangeline が、「追放」後、同地域を「故郷」とした英語系沿海州カナダ人が、詩作の中で「故郷」を形成する際にも多大な影響をあたえたことを明らかにしたい。カナダ連邦結成(1867)以降の国民文学を待ち望む動きの中登場した一団の青年詩人Confederation Poetsのうち、沿海州出身のRobertsとCarmanの作品を検討すると、ロングフェロー由来の「虚構」に過ぎないアカディアのイメージが、彼らがかつて「カナダ生まれの英語系カナダ人」により詠われることのなかった「故郷」を「詠う」ことにより「創造」する際に、「想像力の貯蔵庫」として機能していたことがわかるのである。


山中 章子 獨協大学(非常勤)


John Berryman (1914-72)はいわゆる告白詩人のひとりと言われるが、彼の作品は同じく告白詩人と呼ばれた同世代の詩人Robert Lowell (1913-78)やDelmore Schwartz (1911-65)のものとは性質が異なる。Lowellには名門の家系が背負っていた歴史とボストンという土地が、Schwartzにはユダヤ系アメリカ人の文化が大きな影響を与えた。だが、寄宿学校でいじめられつつ少年時代を過ごし、不況による家業の破綻から引越しを経験した少年Berrymanには、祖先から受け継いだ歴史も土地も文化もなかったといってよい。つまり彼は、特定の影響を受けるだけの故郷を持たずに生まれ育ったのである。最期の地であるミネソタに落ち着いたのは後年のことだ。

更にBerrymanは第二次世界大戦の徴兵の際、視力の弱さのため二度も4F(兵役不適合者)となり、戦争に関わらなかった。Connaroeも指摘するように、この点も良心的兵役拒否者だったLowellや戦争を体験したRandal Jarrell (1914-65)とは違う。Berrymanは自分の意志で反戦を選んだわけでも、意思に反して参戦したわけでもなく、受動的な結果を受け入れただけだったのだ。

このような「影響を受けない」状況が、逆にBerrymanの作品に影響を与えただろうことは容易に推測できる。自分がユダヤ人では ことを証明できない青年を描いた初期の短編小説 “The Imaginary Jew” (1945) で既に現れているように、Berrymanは、社会・文化の中心へ積極的に関与していくのではなく、私的な題材を通して、社会の周縁から虚をつくような作品を生み出した。社会とのこのねじれた関係は、“Dream Songs” (1964-69)の主人公Henryの黒塗り(blackface)という「仮面」に結実する。「仮面」は素顔を隠すための覆いとして機能するが、同時に「仮面」をつけた者の言葉が覆われた素顔の本音であることも示唆する。“Dream Songs”では私的な主題が多く書かれているが、「仮面」を使うことで「Henryは架空の人物であり私ではない」として作中人物と作者の距離を保てるし、夢の世界における自己との対話の入り口にもなる。

Blackfaceという「仮面」は、人種をも超えてしまう厚さと、着脱できないという薄さ(密着性)を兼ね備えている。これまでの“Dream Songs”の批評では、「社会」と「私」、「意識」と「無意識」などの固定された構造に着目されてきたが、小論ではむしろその境界を行き来するための、道化的な役割を担ったblackfaceであると捉える。社会に参加も不参加もできない消極的な位置にいたBerryman/Henryは、矛盾を内包する自己(self)を用いて矛盾を内包する社会(public)を体現する。それは「自己」対「他者」という二項対立ではなく、自分も社会の中に含まれている、内部からの告発となるのだ。

創作の支えとなる歴史も文化も持たなかったBerrymanの視線はやがて自己内部へと向かい、それを詩の主題としたが、詩のフォームとして19世紀にアメリカで生まれた比較的新しい演芸であるミンストレルショーを用いた点に、彼らしさがあるといえるだろう。ミンストレルショーの道化であるHenryは、白/黒、意識/無意識、表/裏の境界を行き来する。初期の詩集The Dispossessed (1948)より、社会批判の色が強くオーデン風だといわれる作品や対話形式の作品と“Dream Songs”を対比させながら、Henryの「仮面」について考察する。


小林 愛明 青山学院大学(非常勤)


本発表ではRobert Lowell(1917-77)とHerman Melville(1819-91)の関係を、特にアメリカの人種差別と帝国主義の観点から追っていく。

メイフラワー号の乗員にまで遡ることのできる家系に生まれた詩人にとって、アメリカの歴史とはすなわち彼自身の歴史であった。しかし詩人がそこに見るのは多くの場合、アメリカの「負の遺産」である。初期の詩集Lord Weary’s Castle(1946)を読めばわかるように、そこには植民地時代から続くネイティブ・アメリカンの虐殺や第二次世界大戦におけるアメリカの帝国主義への批判を容易に読み取ることができる。このような詩人の姿勢は60年代に入ってからさらに激化し、劇の創作やベトナム反戦運動への直接参加へと結びついていく。大まかにいえば、詩人は詩のプライベートな空間からよりパブリックな空間へと道を開拓していったといえるだろう。

多くの批評家が指摘しているように、詩人が信奉していた特定のイデオロギーを探るのはほぼ不可能である。しかしその一方で、詩人がアメリカの抱える人種偏見や帝国主義に対して一貫した批判を行い続け、それを作品へと昇華してきたこともまた事実である。問題はそのような批判を行う際の詩人の詩的戦略だ。

彼の所謂「反戦詩」「反戦劇」を読むものは誰でもそこにNathaniel Hawthorne(1804-64)、Henry David Thoreau(1817-62)、Melvilleといったアメリカ・ルネッサンス期の作家たちが大きく姿を現すことに気づくだろう。元よりEzra Pound(1885-1972)やT. S. Eliot(1888-1965)、さらにニュー・クリティシズムの作家たちの影響から出発した詩人である。過去の作品に題材を求めつつ自己の作品を権威付けていくのは彼のいわば「お家芸」であり、作品の中で言及されていくのもひとえに彼らアメリカ・ルネッサンス期の作家たちだけにはとどまらない。

しかしこと「反戦」をテーマに選ぶとき、詩人が顕著なまでにアメリカ・ルネッサンス期の作家たちの、それもいわば「懐疑的」と呼ばれる作家たちの作品に題材を求めていくのは何故だろうか。詩人にとって過去の作品を「模倣」・「翻案」していくことは、作品を権威付けるという目的以上に、アメリカの過去と対話し、そこからアメリカの本質を導き出し、さらにそれを表現するための言葉を獲得する営みであった。その意味で詩人にとっての過去は同時に現在であり、過去の作品で使われた言葉は現在においても十分説得力を持ちうる言葉なのである。

詩人自らが公言しているように、彼の精神内でアメリカの帝国主義と象徴的に結びついたのはMiltonのサタンとMelvilleのエイハブであった。特にMelville作品からのイメージの借用は初期の詩集から一貫してみられるのである。これまでにも各批評家たちによって個別の作品に対する考察がなされてきた。しかし奇妙なことに詩人とMelvilleの関係を一貫して論じた者は誰もいない。今回の発表では詩人とMelvilleの関係をアメリカの人種差別や帝国主義の観点から検討しつつ、初期から後期へとわたって微妙に変容していくMelville像をも同時に考察していく。また後年になるにつれて『白鯨』は半ば沈降する形で作品から姿を消していくが、これを詩人の詩学的発展と関連付けて論じていくつもりだ。


原  成吉 獨協大学


Gary Snyderは、1955年10月にサンフランシスコのSix Galleryでビート・ムーヴメントの誕生を告げるポエトリー・リーディングをおこなった 翌年の5月に、日本へやって来た。そして1956年から1968年まで、おもに京都で禅仏教の修行と研究をしながら詩を書くことになる。この期間の体験をもとに、日本について書かれた詩はすでに100篇以上にのぼる。現在スナイダーは、アメリカにおける禅仏教の有力な指導者の一人であり、その功績は日本の仏教界でも高い評価を受けている。1998年には、宗派を超えて仏教の精神を広めた功績により「第32回仏教伝道文化賞」を受賞している。さらに2000年には曹洞宗大本山永平寺主催によるポエトリー・リーディングもおこなっている。

スナイダーが日本へやってくる直接のきっかけとなったのは、ニューヨークの the First Zen Institute of America との出会いにはじまる。「アメリカ第一禅協会」は、日本人の禅僧、佐々木指月(曹渓庵)(1882-1945)が、禅仏教の普及のためにニューヨークに設立した機関である。彼の死後、夫の遺志を継いだRuth Fuller Sasaki(1892-1967)は、大徳寺の後藤瑞巌老師のもとで禅を学びながら、当時の廃寺を再興し、外国人が禅を学ぶための機関として「龍泉庵」を設立する。財政的にも恵まれていたルース・ササキは、『臨済録』を英訳するための研究グループを組織した。彼女の呼びかけで、龍泉庵には、京都大学の入矢義高、柳田聖山、そしてコロンビア大学のBurton Watson、Philip Yampolskyといった中国文学者が集まり、原典の中国語から『臨済録』の英訳の仕事に携わっている。そしてルース・ササキと研究者グループの仲介の労をとっていたのが、アメリカ文学者、金関寿夫である。スナイダーは、ルース・ササキの後援により来日し、禅の修行と平行しながら龍泉庵でルース・佐々木のために仕事をすることになる。

今回の発表では、当時書かれたいくつかの詩作品をとりあげながら、UC デイヴィス校のSpecial Collectionsとニューヨークのthe First Zen Instituteに残されている未公開の往復書簡、そして詩人本人の証言をもとに、スナイダーにとっての日本滞在の意味を考えてみたい。