1. 第7室(1号館4階 I-407教室)

第7室(1号館4階 I-407教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
高田 修平

1.浮遊する主体――Karen Tei YamashitaのThrough the Arc of the Rain Forest における超国家主義

  牧野 理英 : 日本大学

2.アメリカン・ラッダイトと西部表象――Against the Dayを中心に 後期Pynchon文学を読む

  波戸岡景太 : 明治大学

大森 義彦

3.Anaya文学の四季とカオス――Jemez Spring(2005)を中心に

  水野 敦子 : 山陽女子短期大学

 

4.セッションなし



牧野 理英 日本大学


本発表ではKaren Tei YamashitaのThrough the Arc of the Rain Forest (1990)における超国家主義に関して論じていきたい。Yamashitaは1975年から1984年までのブラジル滞在中に、第二作目となるBrazil-Maru (1992)の原稿を手がけた。そしてブラジルでの文化人類学的実地調査に行き詰まったYamashitaは、歴史的小説Brazil-Maru を完成する前に、ポストモダニズム的な小説Through the Arc の原稿を書きあげたと後にインタビューで語っている。このようにジャンルの違う二つの小説を完成させた背景には、人々、文化そして製品等が資本主義の導入により国境を自由に行き来する超国家主義という主題を様々な角度でとらえようとしたYamashitaの姿がうかがえる。

歴史的史実に基づいたBrazil-Maruとは異なり、Through the Arc は近未来を思わせるブラジルの架空の土地、で繰り広げられる人々の飽くなき資本主義的欲望と、その結果引き起こされる自然破壊による破滅的終焉を描いた小説である。アメリカ資本主義がブラジルに導入されたことで生ずる超国家主義は、作品においてはマジックリアリズム的手法を使って浮遊と飛翔という二つの行動によって表象されている。幼少期の不可思議な体験以降プラスチックのボールを額の上に浮遊させている日系移民Kazumasa Ishimaruは、その身体的奇形ゆえにブラジルにおいて、国家という概念に順応することのない「浮遊した」主体となる。これに対し、同じく超国家主義を具現する登場人物達――Kazumasaの下宿しているアパートに住む伝書鳩を飼育する夫婦、野鳥の羽の魔術に魅せられる老人、Kazumasaの特殊能力に目を付け、国際的に活躍するアメリカ人ビジネスマンとその妻のフランス人鳥類学者、そして<天使>と呼ばれる巡業者など――は文字どおり飛翔する鳥のごとくその資本主義的欲望を世界に拡張していく。このような超国家的「飛翔」に対し、Kazumasaの「浮遊」は何を意味しているのか?

今日のアジア系移民の体現する超国家主義は、Aihwa Ongが指摘しているように、第三世界において自国のアジア的理論とアメリカ資本主義を組み合わせることにより世界進出を企てるという一面をもっている。それは西洋近代化をとりいれながらもアジア性を失わず、その経済的植民地主義によって世界を飛び回る新しいアジア系主体である。Brazil-Maru の中心人物である日系エリート、Kantaro Uno もこのような植民者としての超国家主義を具現しているといえよう。一方Through the Arc のKazumasa はKantaroのような超国家性をもちながらも前者のたどる破滅的な人生から逃れ、国境、人種、階級の壁を超えて最終的にはブラジル人で子連れの家政婦、Lourdesとの穏やかな愛の生活を見出す。本発表ではこの「浮遊」するKazumasaを新しい日系主体とらえYamashitaのThrough the Arc における超国家主義を解明していきたい。


波戸岡景太 明治大学


“荒地は人間を必要としないが、人間の自由に荒地は必要である”。The Monkey Wrench Gang (1976)の作者Edward Abbeyの言葉が示唆するように、アメリカン・ラッダイトはときにアメリカ西部のウィルダネスを必要としてきた。かつてバイロン卿により独立革命と結び付けられたラッダイト運動は、やがて鉄道、ハイウェイ、ダムなどの敷設により失われていく〈西部〉のイメージを背景に、カリフォルニア化していくアメリカ合衆国そのものへの抵抗運動に姿をかえた。Henry David Thoreauのウォールデンをシエラ・ネヴァダの自然に置き換えたJohn Muir以来の、アメリカ西部のランドスケープを念頭に展開されてきたアメリカン・ラッダイトの伝統を踏まえるとき(Nicols Fox, Against the Machine (2002)等)、その独自性を文学実践として言語化しつつ再定義を試みてきたThomas Pynchonが、新作Against the Day(2006)においてその主要舞台を19世紀後半のコロラドに設定したことは注目に値する。

同作品は従来のPynchon作品同様、多種多様な登場人物の軌跡が複雑なプロットの上に描かれているのだが、アメリカン・ラッダイトという主題を考えるとき、それはコロラドの鉱山町にはじまり、メキシコ、そして第一次大戦に揺れるヨーロッパからユーラシア大陸の奥地まで、大資本家Scarsdale Vibeを父親の仇として追いかけるTraverse家の物語であると、とりあえずは考えることが可能だろう。Traverse家は、1990年に発表されたVinelandの主役であるZoydの元妻、Frenesiの母方の家系にあたる。19世紀末から1980年代のレーガン政権下のアメリカに至るまで、〈反体制〉のひとことだけでは決してまとめきれないこの血筋は、Traverse家の家長Webb Traverseが爆弾魔Kieselguhr Kidであるという作者の示唆によって、Pynchon流のアメリカン・ラッダイトを分析する格好の対象となる。なかでも、Against the Day内で何度となく議論される〈爆弾〉の政治的意味や、鉄道爆破へのこだわりは、Abbeyのラッダイティズムを想起させる。もちろん、Pynchonのそれはアメリカ西部のウィルダネスそれ自体を守るために発動されたものではない。にもかかわらず、本作において、アメリカ西部を拠点として展開されるTraverse家のラッダイティズムは、直接あるいは間接に〈惑星〉全体への危機意識と結び付けられて語られていることを見逃してはならないだろう。

本研究発表では、これまで本格的な研究対象とはされてこなかったPynchonの〈西部〉に焦点をあて、Against the Dayを中心とした後期Pynchon文学の新たな見取り図を提示する。同時に、ラッダイトを一種のアメリカン・ヒーローとして押し上げてきたアメリカ文学・文化史を辿りながら、荒地のアメリカン・ラッダイトというイメージを交点として結びつくポストモダン小説とネイチャーライティングの横断領域を探りながら、現代アメリカ文学におけるPynchonの最定位を試みたい。


水野 敦子 山陽女子短期大学


アメリカ南西部に異邦人として生きるチカーノ作家、Rudolfo Anayaの2005年の作品Jemez Springを、四季とカオスを軸にして考察してみたい。本作は、主人公探偵サニー(Sonny)と、核を〈現代の太陽〉と称し、核を盗んで世界を征服しようとするレイヴン(Raven)との対決を描く四季四部作の最後の作品で、レイヴンを倒しニューメキシコに春を招来させたサニーは〈チカーノ・ユリシーズ〉と呼ばれる。作者は、この夏から春への四季四部作で、スペインと合州国によるマニフェスト・デスティニーによって、歴史と文化と土地を奪われた人々の回復をめざした。四季は太陽の道を示すものであり、現代での四季世界の構築は、作者の神話世界との切離感から生じたものである。作者は、奪われた神話の地と太陽との〈関係〉を明らかにしつつ、古メキシコと新メキシコというトポスで南西部の神話を奪回しようとしたのである。

Anayaのこうした立場はカリブ海文学の〈世界の響き〉( )と連動している。チカーノ文学とカリブ海文学の季節のあり方は、概観する限りでも、西欧的な「関係」とは全く異なるヴィジョンが季節に託されて表現されてきたことがわかる。管啓次郎は二つの文学の方向を「オムニフォン」なる多言語主義と捉え、フランス語使用(フランコフォン)や英語使用(アングロフォン)の住み分けを越えた「オムニ」(全ての)の世界を説いている。「あらゆる言葉が同時に響きわたる言語空間で生きる決意を言うものだと、ぼくはうけとめている。理解できない言葉の不透明性をうけいれ、それに耐えつつ、それを尊重し、その来歴を想像し、新たな『列島』を構成しうる可能性を探ろうとするのだ。」(『オムニフォン――〈世界の響き〉の詩学』30)

まさに、企図、侵略、拡張、略奪、搾取、蓄積などの原理に基づかない〈関係〉を探るのがチカーノ文学とカリブ海文学の使命であり、両者は、「アメリカのユートピア的現実に対する、私たちの真の現実をもってする返答」たる「創始の文学」(O. Paz)と言えよう。しかし、カリブ海文学では、自然、或いは季節のなかで謳われた美が〈カオス〉にあったのに対し、Anayaは主人公の敵レイヴンを〈カオスの王〉と称した。神話世界の豊かさを物語化した作者のカオス志向の姿勢とこの命名との矛盾の中に、作者の意図を探る必要があろう。というのも、post-Anaya世代の作家・詩人たちもカリブ海文学者と同様、〈カオス〉の美を文学の基礎としているからである。本発表では、以上のAnayaの矛盾を念頭に、Anaya文学を四季とカオスに焦点を当てて考察する。