1. Cold War, Hot Blood−Poe、Corman、恐怖映画−

Cold War, Hot Blood−Poe、Corman、恐怖映画−

関西学院大学 塚田 幸光


「誰もいない世界」。Stanley Kramer監督のOn the Beach (1959)では、核戦争の「その後」、人類が消失した世界を描いている。ここには腐食した死体も呻き声もない。人類が忽然と消えたサンフランシスコの無機質な街があるだけだ。奇しくもImmanuel Wallersteinが、冷戦を「実体のない抗争」と呼んだように、On the Beachでは、抗争や惨劇が視覚化されず、生存者を苛む、真綿で首を絞めるような恐怖がそこにある。The Twilight Zone (1959-64)から、Last Woman on Earth (1960)やThe Manchurian Candidate (1962)、そしてDr. Strangelove (1964)に至るまで、ハリウッドが描く核の恐怖とは、反共ヒステリーと誇大/被害妄想と同義だろう。無音・無人の世界では、敵が不在であり、グロテスクな死/身体も存在しない。人類/生存者は、来るべき絶滅に向けて空しく動き回るだけなのだ。

当然のことながら、核に対する想像力の欠如が、ステロタイプな映像表象に接続され、それがヴェトナム前夜の冷戦期ハリウッドを席巻していたことは忘れるべきではない。不在の戦場と不在の身体。これが「誰もいない世界」へと繋がったことは明らかだからだ。とはいえ、重要なことは、このような核/SF映画が排除した身体が、恐怖映画において回帰し、視覚化・実体化されていることだろう。冷戦期に「復活」した恐怖映画の意義は、メタフォリカルな恐怖表象ではなく、現前する「死/身体」にあるのではないか。恐怖映画は、核への目配せを試みながら、その恐怖は不在の身体ではなく、身体の前景化に連動しているように見えるからだ。

本発表では、これらのことを踏まえ、B級映画の「帝王」Roger Cormanが映画化したEdgar Allan Poe作品に注目し、冷戦/核と死/身体との関係を考察する。冷戦期におけるポー作品の映画化と恐怖映画の復活は、文化史や映画史からも看過され、特にコーマンなどは黙殺され続けていると言っても過言ではない。ここで我々は、AIP(ARC)のポー・シリーズの第1作The Fall of the House of Usher (1960)の公開年が、Alfred HitchcockのPsycho と同年であることに文化的・歴史的な必然を見るべきだろう。近親の呪縛、死/身体の前景化、そして密室。ナルシスティックでファナティックなもう一つのアメリカがここに見え隠れする。冷戦の恐怖映画から滴る「血」は、一体何をスクリーンの肌理に映し出し、それは文学の如何なる要素を換骨奪胎しているのか。ポー映画の性/政治学を見ていこうと思う。