1. 誰もEdward W. Saidを読まない?――終わらない冷戦とReagan期米国批評理論のさまざまなはじまり

誰もEdward W. Saidを読まない?――終わらない冷戦とReagan期米国批評理論のさまざまなはじまり

東京学芸大学 大田 信良


誰もがEdward W. Saidを読んでいる。たとえば、英文学が主として19世紀に他者としてのオリエントをどのように表象したか問題にするときに準拠する批評理論の参照枠として。あるいは、 (ポスト)コロニアリズム批評のさまざまな理論の系譜をMichel Foucaultの言説論からはじめてHomi K. BhabhaやAijaz Ahmad、さらにそれ以降の理論的言説にたどる時に、主としてアメリカの文化政治学におけるメルクマールとして。その上で、ひょっとしたら、SaidのOrientalism の議論には英仏は入っているがドイツのそれは扱われてはいないとか、18世紀以前にはあるいは20世紀初頭でもポピュラー・カルチャーに目を向ければ西洋と東洋のよりダイナミックで豊かな文化的交渉や交流の可能性を探ることができるのではないかとか、話は展開していくことになるのかもしれない。21世紀現在のBRICs諸国とりわけ中国の存在を視野に入れた eco-cultural historyによる「近代世界システム」(Immanuel Wallerstein)の見直しや帝国=コモンウェルス体制としての大英帝国の文化の再考を十分に吟味・検討しながらの展開であるなら、それらはそれなりの意義をもつ仕事なのかもしれない。

しかしながら、こうした批評的明察にもかかわらずあるいはそれゆえに、Saidの読まれていないテクスト空間が存在しているのではないか?Orientalism および Culture and Imperialism について言えば、20世紀アメリカのエリア・スタディーズや新聞・雑誌メディアにおけるオリエンタリズムの問題がそれである。別の言い方をすれば、19世紀および20世紀初頭までの英仏の帝国主義と人文諸科学の表象から20世紀後半のアメリカのエリア・スタディーズや文化論への重層的な系譜をたどることにより、Hannah Arendt のThe Origins of Totalitarianism やLionel Trillingのリベラリズム文化論の解釈図式に批判的に言及していたことを、われわれは改めて思い出しておいてもよい。米文学研究の中心的対象にはならないこれらの言説を、比較文学の最良の遺産を批判的に継承したSaidは19世紀英仏とくに英文学研究における言説との系譜的つながりにおいて、あるいは、英米両国にまたがる空間的転回においてたどりなおしていたのではなかったか?

新冷戦に入った80年代米国のさまざまな批評理論、特に、新歴史主義は、確か、マルクス主義的なテロス一直線の大きな物語を過去の否定的な遺産として葬りながら、むしろそれとは異なる逸話の反復や複数のジャンルの横断・攪乱を実践したはずだったのに、これまでの英米文学研究は、Saidの仕事に存在するこうしたトランスアトランティックな関係性に十分な対応をしてきていないのではないか?つまり、誰もSaidを読まない?

本発表では、Reagan期以降の米国における批評・「理論的言説」のグローバルな歴史化の作業に向けて、終わらない冷戦(Patrick Wright, Iron Curtain: From Stage to Cold War, 2007)の議論を踏まえながら、主としてSaid のOrientalism、Culture and Imperialismとそれに先行する冷戦期の米文学研究制度を編制した政治文化との対決・緊張関係をあらためて読み直してみたい。このようにSaidを読むことにより、Paul de Manの仕事とFredric Jameson、Gayatri Chakravorty Spivakによるそのそれぞれの転回のはじまりもあらたに視野に入ってくるはずである。