1. 3.Edward AlbeeのThe Goat, or Who is Sylvia? における「崩壊」

3.Edward AlbeeのThe Goat, or Who is Sylvia? における「崩壊」

森  晴菜 大阪大学(院)


Edward AlbeeによるThe Goat, or Who is Sylvia? (2002)の主人公であるMartinは社会的成功を収めた人物であり、息子Billyがゲイであるという事実も受け入れ、平穏な家庭生活を送っている。しかし、そんなMartinの人生は彼がヤギSylviaと不倫関係にあると明らかにしたことから、彼の家庭をも巻き込み崩壊していく。

Martinによるベスチアリティ(獣姦)が強烈なインパクトを与えるこの作品は、彼の行為の倫理的な是非を問うためだけのものではない。ここで重要なことは、登場人物の誰もが個人的な嗜好、言動がどこまで許容されるかを決定できないという点である。友人Rossは真実が世間に知れることによってMartinの社会的立場が脅かされると行動を規制する。その一方で、Martin本人はSylviaへの愛情は本物だと信じて疑わず、周囲の人間に激しく非難されながらも、ヤギとの肉体関係を間違っているとは受け入れない。家族や友人から幾度も「ありえない」と批判されるMartinのこの愛情を目の当たりにし、Billyですらも「自分は少なくとも人間を相手にしている」と父親を断罪する。この言葉は、獣姦という極端な行為にでた父と自己のセクシュアリティを自ずと対比させるもので、当初は許容されていた彼のホモセクシュアリティも浮き彫りにされ再考を迫られる。さらに作中では父と息子の近親相姦を連想させる関係性、赤ん坊を抱いている際に性的興奮を経験した男性の逸話など常識ではタブーとされる性が描写され、Martinによる獣姦の告白は様々な問題の浮上、セクシュアリティにとどまらない社会通念の再検討の契機となっている。これにより示されるのは社会的言説を規定するルールがいかに曖昧であるかということである。観客は、この不確定性によってMartinが抱く大きな孤独、さらに彼を取り巻く家族、友情の崩壊を目撃し、人間のセクシュアリティがどこまで許容されるのかという判断へと誘われる。

この作品の結末はMartinとSylviaの関係に激昂した妻StevieがSylviaを殺し、その死体を引きずって現れるというさらに衝撃的な場面で幕を閉じる。本発表では、このようなStevieの破壊行為にも着目しながら一般的な社会通念とその曖昧性を起点とした論を展開し、さらにはAlbeeの家族劇に対する新たな視座の提供ができれば幸いである。