1. 2.「私」のアレゴリー――エリザベス・ビショップの三篇の詩

2.「私」のアレゴリー――エリザベス・ビショップの三篇の詩

鷲尾  郁 明治大学(非常勤)


Elizabeth Bishop(1911-1979)は、初期の段階では、前世代のモダニズム詩人の影響を受けた「非個性的」な詩を、数おおく創作していた。しかし、第三詩集Questions of Travel. (1965)の頃から、Robert LowellのLife Studies. (1959)の影響などもあってか、自伝的な要素を積極的に自作に取りこむようになる。最後の詩集となった第四詩集Geography V. (1976)においてもその傾向は続くのであるが、この詩集においては、詩における「私」をめぐる問いが、単に、自伝的素材をいかに詩のなかに盛りこむかという点にとどまらず、詩において「私」はいかに成立するのか、その条件そのものへの問いかけへと昇華されている点で特徴的である。

“In the Waiting Room”において、歯科医院の診察室からきこえてくる他者の痛みの声にひきずりこまれるように、「私」の輪郭の危うさを悟る少女。“Crusoe in England”において、孤独のうちに自足していた島での体験を回想するものの、その体験を記念する品を見出せない英国帰国後のロビンソン・クルーソー。“Poem”において、直接会ったこともない叔父の絵に描かれた風景が、かつて自分がじかに見知った風景であると気づき、ハッと驚く語り手。こうしたモチーフをあつかう詩をとおして浮かび上がってくるのは、言葉をとおして建設されている「私」の成り立ちであり、その「私」と「他者」、「記憶」、「記録」との関係性のありようである。

いわゆる自律性をもった「非個性的」な文学テクストにおいては、「私」という語がはらむ問題が浮上してくることはない。その種のテクストのなかに「私」が登場するとしても、それが示すのは単に一人称単数という文法的地位であろう。(ゆえに、テクストのなかの「私」が作者と一致するとはかぎらないということにもなる。) 一方で、自伝的、告白的に個人の体験を語る種類の文学作品においては、別の意味で、「私」という語は安定している。この種の作品の作者は、「私」という語を、現実の自分自身を指し示す語として引き受けていなければならない。(ゆえに、そこでは、「私=作者」はゆるがない前提となる。)

本発表でとりあげるBishopの三篇の詩においては、言語による構築物としての「私」があらわになる瞬間がくりかえし提示されている。しかし、それと同時に、「私」という構築物は、言語をもちいるかぎりは必要不可欠な形式であるという条件も幾度となく示される。(そして、その条件ゆえに、「私」の輪郭は定まり、「記憶」が成立し、そして、言語に基づく他者とのネットワーク、つまりは、「社会」に参加することが可能になるのだろう。)

本発表では、Geography V. に収められた三篇の詩(“In the Waiting Room”、“Crusoe in England”、“Poem”)を、こうした「私」の諸相を考察した詩として読む。いわば、この三篇の詩を、「私」のアレゴリーとして読むことが本発表の目的である。