1. 4.見えないものを奏でる――Tropic of Orange におけるスコポフィリア

4.見えないものを奏でる――Tropic of Orange におけるスコポフィリア

寺澤由紀子 明治大学(非常勤)


本発表では、Karen Tei Yamashitaの小説Tropic of Orange (1997)を取り上げ、主要登場人物の1人であるManzanar Murakamiのスコポフィリア(scopophilia)の形態について考察する。「見る欲動」と定義されるスコポフィリアは、Freudによれば、窃視と露出の二種類に分けられるが、Freudは、「見る」行為である窃視には、能動性、男性性そして主体としてのポジションを、「見られる」行為である露出には、受動的、女性的な客体のポジションを結び付けている。この主体・客体の関係においては、視線は一方的に働き、弱く受動的で女性的なものは、強く能動的で男性的なものの従属物であり、常に主体によって「見られるもの」であるとして固定されてしまう。そして、「見る」「見られる」「見られるために提示する」という行為が、記憶や自己の形成過程に不可欠であることを考慮すると、個人的レベルでも集合的レベルでも、そしてジェンダー、階級、人種といったあらゆるカテゴリーにおいても、主体にとって不都合な客体の記憶は不可視化され、結果、客体は健全な自己感覚の形成を阻まれることになると言える。このような負のエネルギーを持つ二元論的スコポフィリアを覆し、新たなスコポフィリアの形を示しているのがManzanarである。日系アメリカ人のホームレスManzanarは、毎日フリーウェイにかかる陸橋に立ち、町が作り出す様々な光景を見つめ、様々な音を聴きながら、それらの音や光景を使ってシンフォニーを作り、それを演奏する想像上のオーケストラの指揮をする。彼のスコポフィリアは、そうした音楽活動に密接に関わるものである。まず彼は、自らの日系アメリカ人ホームレスとしての身体を、陸橋に立つ指揮者として最大限に露出することで、社会の中で客体化され、抑圧され、不可視化されているマイノリティ、ホームレスという身体を再主張する。さらに、誰も敢えて見ようとはしないもの、つまり、アメリカの集合的記憶の中では無視され、抹消された様々なナラティブを見つめる行為に従事し、そのようにして見つめたものを音楽として表現し、再提示することで可視化させていく。本発表では、こうした一連の「見る」「見られる」「見られるために提示する」という行為を通して、Manzanarが、日系アメリカ人の強制収容によって傷ついた自己の回復を図るだけでなく、二元論的スコポフィリアを通して構築されたいわゆる「弱者」の記憶を書き換える試みをしていることを主張したい。